亀岡のこれまで
亀岡の歴史
年代 出来事
亀岡市誕生以前 亀岡市誕生以前の主な出来事

・亀岡町を含む周辺5村で競馬開催に踏み切りました。
 草競馬のためサラブレッドは少なく、ほとんどが平素は農耕馬だったようです。
 しかし後々、収益の悪化とともに返上されました。

・昭和27年11月1日 亀岡町「世界連邦平和年宣言」。
 なんと日本で2番目の宣言だったそうです。
「戦争のない一つの世界を作ろう」がモットーです。
昭和30年1月1日 亀岡市が誕生しました!
初代市長の大槻嘉男氏は初めての施政方針演説で「ローマは1日にして成らずと、また、亀岡市も一日にして成らずと申さねばなりません。
市民の希望は常に大きくなければなりません」 と述べられ、今後の発展にとても期待が持てる内容でした。
昭和30年4月 亀岡市章が制定されました。
一般公募されたもので、「亀岡」の「K」を図案化し16町村の合併と未来の進展を表現したデザインのものに決定されました。
昭和31年 均一課税が実施されました。
それまでは市内で税率が高い地区と低い地区が混在していました。
また、亀岡市全体は京都市に比べ税率が高く、31年の均一課税実施後、
約10年をかけて周辺都市と同レベルの税率へ移行しました。
なんと市税収入の約10分の1の減税に踏み切る断行でした!
昭和31年4月 工場誘致条例が施工されました。
 条例に基づき、以後たくさんの誘致に成功しています!
・昭和34年 郡是製糸㈱亀岡工場:誘致第1号です。
・昭和36年 関西二井製作所亀岡工場:当時、日本唯一のコンデンサーの総合メーカーの誘致に成功。
それ以後も、日本コンデンサ、吉忠マネキン、西陣織物工場と、
昭和40年までに40社以上の誘致に成功しています。
昭和31年9月17日 亀岡小学校で集団赤痢が発生しました。
平常授業に戻ったのは1ヵ月後、赤痢の原因とされた給食が再開されたのは、
なんと1年半後のことでした。
昭和34年3月 千代川町に市営の自動車練習場を開校。
京都府内で私立の自動車学校を持っているのは、当時は亀岡市だけでした。
後に園部に練習場ができるまでは、口丹波唯一の学校でした。
昭和34~35年頃 亀岡へ国際会議場の誘致を目指した活動が行われました。
最終的に断念しましたが、誘致予定地への視察を円滑に行うため山道に造成された道路が、その後の亀岡カントリーのゴルフ場への進入路となりました!
ゴルフ場造成への基礎は実はこんなところで出来上がっていたようです。
昭和35年8月 16号台風で大きな被害を被ります。
昭和10年以降20回もの水害に見舞われた亀岡市ですが、原因は市を縦断する桂川の逆流でした。
上流にダムができ、ますます被害がひどくなったことに市民も立ち上がり、後々の水害対策の完成に繋がりました。
昭和36年8月 市営水泳プールが完成。
当時としては珍しいシャワー室・更衣室を完備したプールでした。
利用客の増加とともに、吉川町民(入場客の整理や掃除)や亀岡高校水泳部(監視)まで協力したそうです。
昭和39年4月 クニッテルフェルド市と姉妹都市になりました。
亀岡の頼政塚からの道を「クニッテルフェルド通り」と呼び、
クニッテルフェルド市にも「カメオカ通り」が誕生しました。
昭和41年4月 老ノ坂トンネル開通式。
観光シーズンにはマヒ状態に陥っていた交通の難所を解決するため、
トンネルの傍に閉じたまま残されていたトンネルが改築されました。
なんでもこのトンネル、戦時中には、トンネル内に何かが隠されていると噂されていたのだとか・・・。
昭和41年11月 亀岡小学校新校舎完成です!
亀小は児童1,000人以上のマンモス校・・・「モデル校」として広くアピールすることを目指して、 当時としては異例の1億4,000万円もの費用をかけて新校舎が建設されました!
華やかな舞台裏には・・・この機に備品も刷新しようと各自治体に善意の寄付を募ったところ、一部から「強制だ!」との批判が起こり、騒動に発展してしまったという苦い思い出もあるようです。
昭和45年5月 市花つつじが制定されました。
市民からの募集で決定されましたが、2番目に応募が多かったものは「桔梗」だったそうです。
桔梗といえば・・・亀岡ゆかりの武将明智光秀の紋所ですね。
昭和45年7月 亀岡中学校新校舎完成です!
新校舎の敷地予定地が余りに狭く、関係者は大変苦労されたそうです。
亀岡町役場の敷地(当時は市民全館に改装)を取り壊し、道路の路線も変更して何とか敷地が確保されました。
総工費は2億3,700万円にも上りました!
昭和47年 八木町氷所に中川克之が次男として誕生!
昭和55年 国鉄山陰線複線電化工事が亀岡側から着工開始。
約10年をかけて4万もの署名を集め、国鉄総裁&国会議員に強力な陳情を繰り返した結果の、ようやくの着手だったそうです。
「中川さん」豆知識
歴史的に有名な”中川さん” 弊社と関係有るのか無いのかは・・・不明です。
名前 どんな人?
中川重政
(なかがわしげまさ)
戦国時代から安土桃山時代の武将。

父は織田刑部大輔で、織田信長の叔父・織田信次の孫に当たるといわれるが、
年代的に疑問視されることもある。

信長に仕えて尾張統一に貢献したため、黒母衣衆に任じられる。
永禄11年(1568年)9月の信長上洛以後は、京畿の所務担当者として、
明智光秀・木下秀吉(豊臣秀吉)らと連判状を頻繁に出しており、
政務上では彼ら重臣と共に特別な地位であったと思われる。

ところが、長光寺城の柴田勝家と領地が隣接しており、
複雑に利権が入り組んでいたため、これをめぐって争い、
弟の津田盛月が勝家側の代官を殺害したことから、信長の怒りに触れ、
弟と共に改易されたうえ、徳川家康のもとに追放・蟄居処分に処された。

信長の死後は織田信雄に仕え、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、
信雄に従って犬山城を守備したが、池田恒興の攻撃に敗れた。
その後の行方は不明である。
中川秀政
(なかがわひでまさ)
中川 秀政(なかがわ ひでまさ、1568年- 1592年)。
戦国時代の武将。妻は織田信長の娘・鶴姫。

父清秀が荒木村重に背き織田信長方についた功により、
信長の10女の婿となりました。
はじめ父と共に織田信長に仕えましたが、信長没後は羽柴秀吉に仕え、
父が戦死すると、家督を継いで摂津国茨木に5万石を領しました。
1584年の小牧・長久手の戦い、1585年の四国征伐で功績を挙げたため、
秀吉から賞されて播磨国三木13万石に加増移封されています。

1587年の九州の役では3千の軍勢を率いて2月5日に進発し、
3月には細川忠興・堀秀政らと共に筑前方面へ展開しました。

文禄の役のとき、江原道水原城で戦いの合間に鷹狩りに出かけたところを伏兵に襲われて討死しましたが、陣中巡視中襲撃された為戦死と報告してしまい、 虚偽の報告が露見し削封されることになってしまいました。
中川宗瑞
(なかがわそうずい)
江戸中期の俳人。通称は三郎兵衛。初号は風葉。別号は白兎園。

幕府の為替両替用達商でした。俳諧を榎本其角(えのもときかく)に学び、
杉山杉風(さんぷう)の門人となりました。
平明な句を志し享保16年佐久間柳居らと「五色墨(ごしきずみ)」を刊行、
俳壇に影響を与えました。