光秀とは?

時は戦国の世、有力な武将たちが領土拡大のため合戦を繰り広げていた時代、
日本の歴史上最大の下克上として、本能寺で織田信長を討った明智光秀。
亀岡はそんな光秀ととても縁が深い地域です。
亀岡で光秀が何をしたのか・・・現代にも残る光秀の面影とは・・・
亀岡と光秀のご縁をご紹介したいと思います。
戦国時代の武将です。
史実としてははっきりしませんが、生まれは岐阜県可児市とも、山県郡美山町とも、恵那郡明智町とも言われています。
「明智 軍記」によると、享年は55歳とあります。
元は足利義昭に仕えていましたが、その経歴を認められ織田信長に仕えるようになりました。
光秀は信長の期待に応え、近江坂本城、丹波亀山城主に( 亀岡の旧名が亀山です)なり、知将としての実力をいかんなく発揮。羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)とともに最有力家臣の一人として活躍しました。

最期は、「敵は本能寺にあり」でお馴染みの本能寺の変にて信長を討ち下克上を果たした後、秀吉の軍勢に追われ、日を置かずして土民に討たれて亡くなりました。

武将として有名な光秀ですが、武骨一辺倒の人物ではなく、戦いの間には一流の文化人を城に招いて茶会や連歌会を頻繁に催すなど、教養の高い人物 でもあったそうです。
明智光秀,亀岡
亀山城(亀岡の旧名は亀山です)、またの名を亀宝城、霞城といい、天正6年(1578)頃明智光秀により築城。
当初は小さな城でしたが、慶長15年(1610)に藤堂高虎によって5層の天守が完成しました。
明治11年(1878)頃当時の新政府により解体、現在は堀や石垣が城跡として残っています。
司馬遼太郎は『街道を行く』で亀山城のことを「闇夜に打ち上げられた大輪の花火のように華麗ではかない」と書いています。

■光秀と亀山城
「丹波平定」という使命を受けた光秀でしたが、八上城の波多野氏をはじめ国人衆の強固な抵抗に会い、持久戦を余儀なくされていました。

このため光秀は亀山城を「丹波平定戦」の軍事拠点として築城しました。
この亀山城を軍事拠点に、天正7年(1579)に難攻不落といわれた丹波を平定しました。

翌年の天正7年(1579)、信長から丹波を領国として与えられた光秀はまさに絶頂期であったと言えます。

■亀山城と現在の亀岡市
丹波平定後には北の保津川(現在は保津川下りとして有名です)を天然の堀として活用し、本丸を北寄りに縄張りし、水害から安全な段丘に近隣の村民を移住させ城下町を築きました。
現在の亀岡の町並みの原点は光秀の周到な亀山城築城にあるといってもいいのではないでしょうか・・・。
亀山城古写真 亀山城古写真 亀山城古写真 亀山城古写真
亀岡市では毎年春に、「亀岡光秀祭り」を行っています。
亀岡城主であった明智光秀を偲ぶ盛大な祭りで、本祭では勇壮な姿の明智軍の武者行列が市内を練り歩きます。
行列には甲冑姿の明智光秀はもちろん、正室の熙子、後の細川ガラシャとして知られる玉子や春日局の姿も見られます

光秀役は一般公募されるので、今年は一体どんな方が・・・というドキドキ感も楽しみの一つになっています。

戦国時代、織田家の智将として知られた明智軍の様子は本当に迫力満点です!
亀岡光秀祭り写真 亀岡光秀祭り写真 亀岡光秀祭り写真
亀岡の谷性寺には明智光秀公の首塚が祭られ、命日にあたる6月14日には回向が行われています。
亀岡光秀まつりにはここで追善供養が行われています。

小栗栖で光秀を介錯した溝尾勝兵衛は、その首を谷性寺の不動明王のそばに葬るよう近臣に託しました。
光秀はこの不動明王を厚く尊信し、本能寺の変の時に「一殺多生の剣を授け給え」と誓願し、本懐を遂げたと言われています。

■ちなみに・・・
谷性寺ではいつの頃からか供養として明智家の家紋である桔梗の花が育てられるようになりました。
谷性寺門前では毎年各種桔梗を咲かせた園「ききょうの里」が開かれるようになり、「桔梗寺」とも呼ばれています。

「ききょうの里」には、約5万株の桔梗が大切に育てられていて、紫や白色の桔梗をはじめ、珍しいピンクの桔梗や沢ききょう、八重咲きの桔梗も鑑賞することが出来ます。
ユリやルドベキア、あじさいの花もきれいに咲いています。
谷性寺の首塚写真 谷性寺の首塚写真 谷性寺の首塚写真
生涯ただ一人
光秀の正室となった熙子(ひろこ)の生家は、明智氏と同じく祖を土岐源氏とする武家。
熙子は近所の評判になるほどの美貌の持ち主だったが、光秀との縁組が決まった頃、思いもかけない病魔(疱瘡)に見舞われ、顔半分には元の美しさを偲ばせながらも、右頬に刻んだ傷跡が残ってしまった。
しかし光秀は拒むことなく妻として迎え入れ、仲睦まじかったと言われている。
光秀は生涯側室を取ることはなかったという・・・。

本能寺の変から100年以上経った江戸時代、当時の福知山城主だった朽木稙昌は当地における光秀の功績を讃え、宇賀御霊大神(保食神)に明智光秀を合祀し、御霊神社を創建した。
代々光秀の善政を語り継いでいた領民たちはこれを大変喜び、城主の朽木に嘆願して「御霊様」となった光秀公のため大祭を行うようになった。
これが毎年10月に行われる「福知山御霊大祭」。
光秀が福知山の領民に心から愛情を注いだ結果と言えるだろう。
愛情

油坂峠
1556年、明智城が落城し、光秀は妻熙子と長女倫子と明智弥平次の4人で、越前(福井県)に落ちるために城を抜けた。
しかし美濃(岐阜県)から越前へ逃げるためには、険しい油坂峠を越えなければならなかった。
そのうち熙子は力尽き、「私を置いて逃げて下さい」と光秀に伝えるが、光秀は身重の熙子を見殺しにするどころか、背負ってこの峠を越えたという。

1562年、越前に落ちてから百姓になりすましながら生活をしていた光秀には、着物を買うお金すらなかった。
そこで妻の熙子は、当時女の命と言われていた黒髪を売って明智の家紋(桔梗)が付いた晴れ着の小袖を買ったという。
黒髪

百発百中の神業
朝倉家に仕えていた頃、光秀は主君・義景のリクエストで鉄砲の腕前を披露することになった。
光秀から25間(約45m)の距離に用意されたのは、一尺(約30cm)四方の的が100個。
光秀が撃ち終えると、的の真ん中の記に68発、残りの32発も全て的に当たっていた。
文字通り百発百中の神業に、義景はすっかり感じ入っていたという。
その後、義景は光秀に鉄砲隊を任せることを決めたと伝えられる。

光秀が若い頃、斉藤道三の娘、帰蝶と恋仲にあったと言われている。
当時美濃の蝮と恐れられていた斉藤道三は、戦国の同盟を結ぶ目的の結婚によって、帰蝶は織田信長に嫁ぐことになった(後の濃姫)。
結果、光秀は失恋することとなるが、帰蝶への思いは生涯続いたと伝えられる。
失恋

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光秀人物相関図