梅岩とは?

時は江戸時代中期の享保時代、幕藩体制の矛盾が表面化し、その反面、商業の発達により町人が台頭してきた時代・・・そのような中、町人のための哲学を確立した石田梅岩。
亀岡はそんな梅岩の生誕の地です。

梅岩が何を思い、どのような思想を確立していったのか・・・現代にも通じる梅岩の教えをご紹介したいと思います。
江戸中期の思想家で、石門心学の創始者です。
「負けるが勝ち」という名言を残した人物としても有名です。
倹約を正直の徳とした、日本における生涯学習の始祖と言えます。

梅岩にとって「自分とは何か」「人間とは何か」を解き明かし、それに基づいて「人の人たる道」を説いていくことが大きなテーマでした。
日常生活の中でいつも経験する意識、つまり心を知り、その本質である知るための修行を重ね、「性は是天地万物の親」との悟りを得、さらに「我なし」の境地へと悟りを深めていきました。
43歳で奉公を辞し、45歳の1729年(享保14)京都車屋町通御池上ル町の自宅で、聴講自由で席料無料の看板を掲げて講席を開きました。
初期は聴講者も少数でしたが、その教えは彼の誠実な人格と相まって庶民の間に信奉者を増し、弟子の手島堵庵や、堵庵門下の中沢道二らの布教活動によって各地に広まり、その学派は石門心学とよばれ、近世思想界に大きな影響を与えました。
石田梅岩,亀岡
石田梅岩は貞享2(1685)年,丹波国桑田郡東懸村(とうげむら,現在の亀岡市東別院町東掛)の農家に生まれました。
「梅岩」は号で,本名は興長,通称は勘平です。
東掛の石田梅岩生誕地には、今でも彼の生家が残っています。
梅岩の命日に当たる9月24日には彼の生家近くの東別院町東掛の春現寺で「石田梅岩墓前祭」が行なわれます。
梅岩生家写真
■石門心学とは
石門心学とは江戸時代に石田梅岩が創始した庶民のための生活哲学です。
石門とは、石田梅岩の門流という意味です。
陽明学を心学と呼ぶこともあり、それと区別するため石門の文字を付けました。
梅岩は儒教・仏教・神道に基づいた道徳を、独自の形で、そして町人にもわかりやすく日常に実践できる形で説きました。
そのため「町人の哲学」とも呼ばれています。

■石門心学の思想
17世紀末になると、商業の発展とともに都市部の商人は、経済的に確固たる地位を築き上げるようになります。
しかし、江戸幕府による儒教思想の浸透にともない、商人はその道徳的規範を失いかけていました。
農民が社会の基盤とみなされていたのに対して、商人は何も生産せず、売り買いだけで労せずして利益を得ると蔑視されていたからです。

梅岩が独自の学問・思想を創造したのも、そうした商人の精神的苦境を救うためでした。
彼は士農工商という現実社会の秩序を肯定し、それを人間の上下ではなく単なる職業区分ととらえるなど、儒教思想を取り込むような形で庶民に説いていきました。
倹約や正直、堪忍といった主な梅岩の教えも、それまでの儒教倫理をベースとしたものでした。
また、商人にとっての利潤を、武士の俸禄と同じように正当なものと認め、商人蔑視の風潮を否定しました。

これらの新しさとわかりやすさを兼ね備えた梅岩の思想は、新しい道徳観を求める町人の心を次第にとらえていきました。
梅岩講釈の図 ガレリア亀岡展示より
梅岩は江戸時代中期の享保時代を中心として活躍しました。
この時代は、幕藩体制の矛盾が表面化した時代でもありました。
その反面、商業の発達により町人が台頭してきました。

梅岩の思想は、神道・儒教・仏教その他、数多くの思想を取り入れ体系化させたものといわれていますが、その中で梅岩が追求したのは、あくまでも民衆の日常生活の中に立脚する道徳的規範の確立でした。
梅岩は「人の人たる道」を求めながら、同時に商業活動の営利追求を積極的に肯定し、「勤勉」と「倹約」を説き「正直」を勧めたことから、町人の自覚を高めることとなりました。

梅岩は、長年の実践成果の総決算として、1739年55歳の時『都鄙問答』をさらに1744年『倹約斉家論』を刊行し同年9月、60歳の生涯を閉じました。
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