亀岡市旭町の歴史

亀岡市旭町

●梅田神社のイボ石塔●
≪旭町の伝説≫
社殿の横に高さ1メートル程の石塔が2つたっています。
一番上のギボシ形の石と次の屋根との間のくぼみに、米粒を供え、自分のイボをなでながら一心に祈ると不思議とイボが取れると言います。
約3ヶ月で手に出来たものがすっかりとれたという話もあります。

●松尾神社●
≪旭町今峠4番地≫
聖徳太子の下命によって創設されたもので、日本でも古い神社の一つです。
五穀の神、水の神、交通安全の神などですが、昔から酒造の神としても有名で酒造家の信仰には篤いものがあるそうです。

松尾神社は京都市嵯峨の松尾大社と同じ祭神を祀っており、祭神の大山昨命が丹波の国に来られた時、保津川を遡るために急流では鯉に、暖流では亀に乗って進まれたといいます。
この伝説は今でも伝えられ、松尾神社では神徒として「」が大切にされており、今でも「亀」とは言わずに「お亀さん」と敬語をつけて読んでいるそうです。

毎年8月15日の夜には献灯祭が行われています。
これは神殿の前に100個の灯明を点灯させるもので、神慮をなぐさめる古くからの神事としてこの地域では「お百灯」として有名です。

前述の通りこの神社は水の神様でもあるのですが、自然に湧き出る手水用の「お滝」はどんな旱魃でも枯れたことがないそうです。

●梅田神社●
≪旭町宮ノ元23番地≫
天正5年(1577年)4月、明智光秀が当国に討ち入りをし米山城主守護内藤備中守直正と合戦したときにも兵火を免れた当社社殿は、昭和23年に国の重要文化財(建造物)に指定されています。
今なお老樹巨木が多く、特に「榁の木」の大木は有名です。
亀岡市千歳町の歴史

亀岡市千歳町の歴史

▼2013年05月18日 ななたに川
新緑が美しい七谷川へ出かけてきました!
サクラの時期もいいですが、5月頃の風景も大変綺麗です!
休日でしたので家族連れがたくさん。川遊びやバーベキューなどで賑わっていました。
小学生の頃学校からハイキングで飯ごうすいさんに出かけたのが懐かしいです・・・。
以前にこのパワースポット紹介でご紹介したことがあるのですが、
川沿いの道には途中七福神の大きな石碑もありますので、七谷川に来られた方、是非探してみて下さいね(^^)

場所:亀岡市千歳町千歳

七谷川

▼2011年3月26日 出雲大神宮
何度訪れても見所満載の出雲大神宮!今回は境内のちょっとしたスポットを巡ってきました。
とっても健康に良いと評判のご神水「真名井の水」、美容・財運・芸能の神様が祀られた「辨財天社」、縁結びの霊石「夫婦岩」・・・等々、お参りするだけではなく境内の名所も見ものですね!
実は、大神宮内はけっこうな距離の徒歩コースになっていまして、まだそちらは行けていません。
今年中には再挑戦の予定です!次回はスニーカーを履いていかねば・・・。

場所:亀岡市千歳町

出雲大神宮

▼2011年3月16日 竹林の道
七谷川横から数キロに及ぶハイキングコース!その途中に通称「竹林の道」があります。
細道の両脇を竹に囲まれた様は、あの有名な嵐山の竹林に似通うものがありますね!
坂道になっていますので運動量はけっこうありますが、この竹林の道や愛宕神社が沿道にありますので、楽しみながらウォーキングすることができます。
身近に京都観光気分を味わいたい時は・・・竹林の道を歩いてみるのも良いかもしれません^^

場所:京都府亀岡市 七谷川横ハイキングコース

竹林の道

▼2011年3月12日 亀岡の自然100選 愛宕神社の森
愛宕神社周辺に広がる森、ここは亀岡の自然100選なんだそうです。さらには京都の自然200選に入るのだとか!
昔から生息するムササビが有名らしいですが、残念ながら夜行性のため発見することはできませんでした・・・。
愛宕神社へ続く道はハイキングロードになっていて、運動にはもってこいの場所です!
周りにはお寺もたくさんありますので、トレーニングがてらちょこっと愛宕神社へ寄られるのをおすすめ致します^^

場所:京都府亀岡市千歳町 愛宕神社

愛宕神社の森

▼2011年3月9日 亀岡の名木 愛宕神社の大杉
愛宕神社、亀岡の名木2本目は・・・大杉!「千年杉」と呼ばれ、神社のご神木として大切に守られてきたそうです。
ちゃんと根本に小さなお社もありました。
立て札には「むささびが住み着き毎夜飛び回っている」とありましたが、残念ながら見ることはできませんでした・・・。
スギはクスノキに次いでの巨木だそうです!確かに、周りの木に比べてとても大きな木でした^^

場所:京都府亀岡市千歳町 愛宕神社

愛宕神社の大杉

▼2011年3月2日 愛宕神社
七谷川横の小道から坂を登り、小鳥のさえずりが聞こえるような少し暗い森の中にある、愛宕神社へお参りに行ってきました!
鳥居をくぐり、高い石垣横の階段を上ると・・・木造りのお社の登場です。
境内は本当に薄暗くて、あおまけに雪が降っていましたので、一人でいると怖いようなロケーションでした。
夏はきっと涼しくて最高のお参り日和になるはずです!
夏の暑い日に是非是非再挑戦してみたいです^^

場所:京都府亀岡市千歳町

愛宕神社

▼2011年2月26日 亀岡七福神六人目 養専寺の布袋
亀岡七福神巡り、6人目は、養専寺の布袋さん!
広島の尾道(いい所でした♪)を髣髴とさせるような、細い路地を縫い歩いた先にお寺を発見!
入り口で早速布袋さんが出迎えてくれました。
このまま帰るのもなんですので、ちょっとだけ境内も覗いていくか・・・と中に入ったところ、参りました、本番はこちらだったのです!
境内には至る所に布袋さんの石像が。なんとその数500体余りだそうです!
別名「ほてい寺」なのだとか。納得です。

場所:京都府亀岡市千歳町

亀岡七福神,養専寺の布袋

▼2011年2月23日 亀岡七福神四人目 蔵宝寺の大黒天
亀岡七福神巡り、5人目は、蔵宝寺の大黒天。
相変わらず雪が降っておりました・・・。階段を少し上って見つけました、大黒天。
元々は争いや災いより護る憤怒相の神様だったそうですが、にこやかな顔はなんだか癒しの顔ですね!亀岡七福神は小高い山の上にあるものが多いですね!
見晴らしが良い所が多いので、亀岡を一望したい方には七福神巡りはおすすめです^^

場所:京都府亀岡市千歳町

亀岡七福神,蔵宝寺の大黒天

▼2011年2月19日 亀岡七福神四人目 神応寺の毘沙門天
年も明けまして、亀岡七福神巡りの残りに再挑戦です!
4人目は、神応寺の毘沙門天。境内に入り、必死

に探したのですが、見つかりません・・・。

その内大雪になりまして、慌てて傘を差し車へ一旦避難しようと門を出たところ・・・いらっしゃいました、駐車場横の木の前に。
外にいらしたんですね・・・気付きませんでした。 ぱっと見た感じとても強くて怖いイメージですが、「笑い」を授けて下さるのだそうです!そう言えば少し微笑んだ顔にも見えます・・・。
場所:京都府亀岡市千歳町

亀岡七福神,神応寺の毘沙門天

▼2010年12月25日 千歳町の看板
今年の夏から始めました「見て歩き亀岡パワースポット」。
今年も最後の更新になりました。ご覧頂きました皆様本当にありがとうございました!
最後のスポットを何にしようか、千歳町をぶらぶらしていましたところ・・・目の端々にチラチラと映る可愛い看板が・・・。
お子さん向けのよくある「飛び出し注意」の看板ですが、千歳町の出雲大神宮付近ではとても力の入った作りになっていました!
お子さんに大人気のキャラクターの絵柄がたくさん!
目に付いたものを撮影しただけですので、他にももっともっとあるのだと思います。
2011年、初詣に出雲大神宮へ参拝に来られた方は、ついでに探してみては如何でしょうか?来年も宜しくお願い致します。

場所:千歳町出雲大神宮付近

千歳町

▼2010年12月15日 亀岡七福神三人目 耕雲寺の恵比須
亀岡七福神巡り・・・3人目は耕雲寺の恵比須です!
道路の案内どおりに上り坂をどんどん進んだところ、辿り着いた先は全く人気のない林道入り口・・・まんまと迷ってしまいました!
なんとか辿り着いた耕雲寺でにこやかな恵比須さんを拝み、さて、亀岡盆地を一望できるという寺横の高台へ向かってみると・・・亀岡名物霧のおかげで景色は全く見えませんでした(笑)
あまりに白すぎて、それはそれで壮観でしたが・・・。ちなみに、帰り道は「なんだこんな簡単に主要道路に出られるんだ」という程あっけなく目的地に到着。
行き道はどうやら曲がり角を間違えたようです。
出雲大神宮を出て、1番目の案内看板には従わないのが迷わないコツです(笑)

場所:京都府亀岡市千歳町

亀岡七福神,耕雲寺の恵比寿

▼2010年12月11日 亀岡七福神二人目 極楽寺の寿老人
亀岡七福神巡り・・・2人目は極楽寺の寿老人です!
道路の看板通りに進み、急な上り坂を登って・・・見つけたお寺の入り口にいました、寿老人。
長生きの神様なんだそうです。肉を食べると数百年生きられるという鹿もちゃんと足元にいました。
お寺の名前といい、幸せに長生きできそうな雰囲気でしたので、ついつい拝んでしまいました・・・。

場所:京都府亀岡市千歳町

亀岡七福神,極楽寺の寿老人

▼2010年12月08日 亀岡七福神一人目 東光寺の福禄寿
亀岡七福神巡り・・・1人目は東光寺の福禄寿です!
七福神巡りめぐりの看板から少し離れていたため、本当に道があっているのか不安になりながら、嵐山のような竹林を抜けると・・・ありました、東光寺!
お寺の門をくぐるとすぐそこに、福のありそうな温和な顔の福禄寿が。
幸福や長寿を叶えてくれるそうです。見ているだけで和むお顔です!

場所:京都府亀岡市千歳町

亀岡七福神,東光寺の福禄寿

▼2010年12月04日 亀岡七福神
亀岡七福神巡り・・・ゲーマーの血が騒ぎますね!!
車で行けないような(?)場所に7人ともいらっしゃるようでしたので、徒歩でまずは3箇所回ってみました。
この写真の看板をの地図を頼りに、時々迷いながら何とか3人を発見・・・近々良いことがあるでしょうか。
また来年、残り4人を探しに行って来たいと思います!
次回から今回の3人をご紹介させて頂きます!!

場所:京都府亀岡市千歳町

亀岡七福神

▼2010年11月28日 黒太夫社
出雲大神宮へお参りして、少し周辺散策を・・・と歩いていたところ、こじんまりした神社を発見!
交通安全の神様ということで、毎日自転車通勤の私としてはお参りをせねば・・・ということで拝殿&お賽銭をお渡ししてきました。
てっきり名も無い地元の神社だと思っていたのですが、帰ってネットで調べてびっくり!
実は、出雲大神宮さんへお参りする前に、こちらを先にお参りするのが正しい順序だとのことです。
出雲大神宮に参拝される方は、是非是非先にコチラにお参りを!
11月現在黄色い銀杏がとても美しいです^^

場所:出雲大神宮横

黒太夫神社

▼2010年11月25日 出雲大神宮2
先週の出雲大神宮の綺麗な紅葉がまだまだ紹介しきれませんでしたので、出雲大神宮パート2です。
11月後半のちょうど今頃が見ごろらしく、本当に綺麗な紅葉でした。
プロのカメラマンは紅葉を綺麗に撮れるのでしょうが、素人の私はカメラのシャッターをきりながら悪戦苦闘・・・綺麗な写真が撮れたでしょうか?
心身のリフレッシュに是非今年は出雲大神宮へ紅葉狩りに行かれてはどうでしょうか^^

場所:京都府亀岡市千歳町千歳出雲

出雲大神宮

▼2010年11月20日 出雲大神宮
亀岡に住んで二十数年、はじめて出雲大神宮へ行ってきました!
正面の出店の美味しそうな食べ物につられそうになりつつ・・・境内へ入ると紅葉真っ盛り!!
先週嵐山へ出かけましたが、勝るとも劣らぬ綺麗な紅葉でした^^
地図を見ると、本殿だけではなく山の上の方まで境内が続いているとのこと。
かなり広そうでしたので本殿以外は諦めましたが・・・いつか挑戦してみたいです。
それにしても出雲大神宮がこんなに弊社の近くにあったとは・・・。
いつも京都縦貫道横の大看板を見ていましたので、てっきりそのあたりにあるものだと思っていました・・・。

場所:京都府亀岡市千歳町千歳出雲

出雲大神宮

●千歳町●
奈良時代の昔から開けたこの土地には国分寺・出雲大社・古墳と古い歴史を物語る史跡が多く存在します。
また、春は千年山の山桜、夏は夕立の後の谷をはいのぼる白雲、秋は落日に染まる車谷のすすき、冬は葉を落とした雑木林と、千年山一帯から三郎岳にかけて四季に深い情趣を感じることができる地域でもあります。
近年、歴史の遺跡を訪ねたり自然を求めて訪れる人も多くなってきました。


●出雲神社の雨乞い●
≪千歳町の伝説≫

日照りが続くと村民は片手に笹を持ち片手には太鼓の類を持って、浄瑠璃のような長い歌を歌いながら列を作って踊り、出雲神社本殿に参拝した後、それが終わるか終わらないかの内にすぐさま急いで家まで帰らなければならなかったと言います。
霊験あらたかな神様のもと、早く戻らないと雨が降りすぎて困るからだったと言います。

●順礼坂の話●
≪千歳町の伝説≫

毘沙門の西方に坂があり、今から100年も昔この坂を上る親子3人の順礼がありました。
坂の頂上に着いた母親は病に苦しむ父親を労わりながら日も暮れかけたのでそこで野宿することになりました。
「カネはしまったかい?」「はい、木の枝に結びました」
この夫婦の途切れ途切れの会話を盗み聞きしてニヤリと笑みを浮かべたのは、この付近で嫌われているナラズ者の馬子の丑五郎でした。
丑五郎は親子3人が寝るのを待ち大石を振り上げ親子3人を叩き殺してしまいました。
そして木の枝からお金を盗ろうとしてびっくり・・・「カネ」はお金のことではなく、順礼のもつ鈴だったのです
翌日峠に登った百姓は3人の順礼と丑五郎が血に染まって死んでいるのを発見しました。
それからその坂を「順礼坂」と呼ぶようになったということです。


●国分寺の銀杏樹●
≪千歳町の伝説≫

国分寺のイチョウの大木の銀杏の実を食べると母乳の乳がよく出るようになり、乳の出ない人が食べると乳が出るという。


●出雲大神宮●
≪千歳町出雲無番地≫

丹波一の宮と言われる本社は「延喜式」に記載されている式内社で、亀岡盆地を見渡すのに絶好の地である千歳山麓に鎮座しています。

歴史は古く5~6世紀まで遡りますが、現在もその神威は広く知られ、東京・大阪など参詣者も全国各地から訪れています。
毎月1日の月次祭には近畿地方から毎月欠かさずお参りに来る人の姿も見られるほどです。
特に1月には参詣者が多く、毎日数台のバスが参詣者を満載にして乗り付けたりもしています。

本社は国と国、人と人の結びに大きな力を発揮する縁結びの神様として昔から有名ですが、今も神前結婚式と並んで、稲作の豊凶を占う「粥占祭(よねうらないさい)」が本社の秘法神事として行われています。

様式を今に伝えるもので、度々の大修理で創建当初の部分は少なくなりましたが、旧国宝で、現在は重要文化財に指定されています。

創建以来歴代の為政者の保護もあつく、源頼朝や、北条氏の時代や、足利氏の時代などに所領安堵の沙汰があり境内での乱行を厳禁としたため、戦乱の時代を無事に切抜け創建の様子を今日に伝えることが出来たのだと言えるでしょう。

本社の有名な行事には毎年1月15日に行われる稲作の豊凶を占う「粥占祭」と、4月18日に行われる「花祭り」があります。花祭りは雨乞いの神事の一種であり、「風流花踊り」が奉納されます。
社蔵の中に江戸時代の花祭りの風流花踊りの番付が描かれたものがありますが、そこには・・・

先祓い以下、屋台まで16の練物と囃し方38人、練物人数120人警固共・・・
産め尽しの先あんどう他、屋台、しんぼち、花笠人数、警固人数、弁当持ちなど・・・
総人数1498人・・・

とあり、壮大なお祭りだったことが伺えます。

●愛宕神社●
≪千歳町国分南山ノ口1番地≫

当神社は火を司り給う火防せ、災難除けの守護神として尊崇されています。
「愛宕の三つ参り」と言い、生後三歳にして参詣すれば一生火難災難を逃れ無事に成長できるという昔からの信仰があり、参詣者も多くいます。
亀岡藩主松平家の崇敬があつい神社でした。

亀岡市千代川町の歴史

亀岡市千代川町

▼2013年07月04日 千代川小学校の校門(旧亀山城内新御殿門)
JR千代川駅前にある千代川スポットの一つ「千代川小学校の校門」です!
この校門、実は旧亀山城内新御殿門で、大変趣のある門構えになっています。 新御殿はそもそも・・・
現在の亀中付近にあった藩庁が老朽化したことから、江戸時代末期に新しく北古世に建築されました。
明治には短期間ですが京都府の出張庁や志庁として利用されたのだそうですよ。
亀山城の重要な遺構として亀岡市指定文化財になっています!
市内にはここ以外にも門や事務所など、亀山城の重要な遺構がまだ各所に残されているんです。
順次見て回れたらいいですね。

場所:亀岡市千代川町 千代川小学校

千代川小学校の校門(旧亀山城内新御殿門)

▼2013年06月29日 月読神社
千代川町にて国道9号線を1本内に入った道、千々川と交差するあたりに「月読神社」があります。
ご祭神は”月読命”。JR千代川駅前にある千代川スポットMAPの一つとして紹介されている神社です。
入口に大きな石鳥居があるので、すぐに分かりました(^^)
境内にはけっこうたくさんの木があり影も多いので、夏場は涼むのにぴったりだと思います!
近くには小学校があるのですが、夏休みなどお子さんが遊ぶ姿が見られるかもしれませんね。

場所:亀岡市千代川町

月読神社

▼2013年05月12日 藤越神社
千代川町の「藤越神社」に出かけてきました!
位置的には国道9号線からも見えるはずなのですが、恐らく9号線を通っても気が付くことはないと思います。
・・・・と言いますのも、神社自体が大きな木々に囲まれてすっかり外から見えなくなっているからです!
外観写真を撮りましたが、木ばかりが映って神社はさっぱり分かりませんね・・・。
入口の石灯篭と鳥居(記名が1740年になっているんです!
長い歴史を感じさせてくれます!)をくぐった境内は、木々に囲まれているため少し薄暗い印象でした。
夏の暑い日にでかけると案外涼しくて良い場所かもしれません(^^)

場所:亀岡市千代川町

藤越神社

▼2013年04月27日 小松寺
千代川町の「小松寺」に出かけてきました!
お寺入口まで続く長い登り階段が印象的。
登りきるとけっこうな高台ですので、見晴らしは最高でした♪

この小松寺ですが、平清盛の息子、平重盛の守本尊だった石造りの観音像が祀られています。
もともと中国の青龍寺から重盛に送られたものだそうですが、重盛が可愛がっていた千原村出身の妙善に与えたのだそうです。
重盛の死後、村に帰った妙善が観音堂を建て、ここに安置したとのこと。
だから、このお寺の名前「小松寺」は、重盛の別名「小松殿」からとられているんですね(^^)

場所:千代川町千原

小松寺

▼2013年04月13日 弊社事務所近く公園の桜
春になると、思ってもいなかったところで綺麗な桜を見かけてびっくりすることがありますね!
この木、桜だったのか・・・と初めて認識することもしばしば。
弊社事務所近くの公園(?)もそんな場所です!
公園というよりは簡単なベンチがあり休めそうな休憩ポイントなのですが、 こちらの桜が大変綺麗でした(^^)
桜は数本なのですが、どれも大きな枝振りで大変華やか♪
駅から事務所への通勤時に眺めるのが毎日楽しみでした。
桜を眺めながらお弁当でも食べたらきっと美味しいだろうなあ・・・。

場所:弊社事務所より千代川駅へ向かう途中

桜,さくら,サクラ

▼2013年04月11日 千代川駅の桜
今年も桜が満開で大変綺麗でした!!
弊社事務所最寄り駅のJR嵯峨野線千代川駅もたくさんの桜が満開!
朝晩の通勤時に心を和やかにしてくれますね♪
残念ながら先週の春の嵐で花びらが大分散ってしまいましたが、葉桜もまたまた綺麗なものであります。
駅舎を覆うように咲いているので、とても華やかに見えます(^^)
気が早すぎますが・・・来年の開花も楽しみです!!

場所:JR嵯峨野線 千代川駅

桜,さくら,サクラ

▼2013年04月04日 光福寺
今年も桜が満開で大変綺麗でした!!
弊社事務所最寄り駅のJR嵯峨野線千代川駅もたくさんの桜が満開!
朝晩の通勤時に心を和やかにしてくれますね♪
残念ながら先週の春の嵐で花びらが大分散ってしまいましたが、葉桜もまたまた綺麗なものであります。
駅舎を覆うように咲いているので、とても華やかに見えます(^^)
気が早すぎますが・・・来年の開花も楽しみです!!

場所:JR嵯峨野線 千代川駅

桜,さくら,サクラ

▼2013年03月30日 宗福田寺
弊社事務所最寄り駅、JR山陰線「千代川駅」。
駅のすぐそばに、千代川の見所案内MAPがありまして、ただ今そのスポットを全部極めようと攻略中です(^^)
さてさて、その中で本日出かけて来たのは、「宗福田寺」。
古い町並みの細い道路をくねくね車で進みながら場所を探していたのですが、参道案内の大きな看板を見つけなければ危うく見逃してしまうところでした!!
参道とありましたが普通の道で、またまた少し急な坂を上ったところに本殿(?)があるのですが、見た目はお寺の感じではなく、普通の建物のようなイメージでした。
ますますあの看板がなければ見つけられなかったかもしれません・・・(^^;A
MAPの説明によれば、開山・萬随和尚、だそうです。
ちなみに・・・ちょっとした高台にありますので、高台から見下ろす風景はなかなか綺麗でした♪

場所:京都府亀岡市千代川町川関鳶ノ巣

宗福田寺

▼2013年03月28日 月読橋
だんだん気温も暖かくなり、春の気配になってきました!
本日は弊社事務所近くの「月読橋」にでかけてきました(^^)
亀岡千原の交差点を京都方面から右折して車で1分、青い色の橋です。
この付近は桜が綺麗なことで有名なんだそうです。
確かに見晴らしもいいのでお花見ができそうなロケーション!!
残念ながら時期的にまだ早かったようですが、満開の時期にまた改めて行ってみたいです。
亀岡で今年桜が満開になるのは、4月初め頃でしょうか・・・?

場所:亀岡千原の交差点を京都方面から右折1分

月読橋

▼2012年04月14日 千代川駅の桜
亀岡では現在桜が満開ですね!
本日は弊社事務所の最寄り駅、JR千代川駅の桜のご紹介です!
通勤で坂東がいつもお世話になる千代川駅ですが、春になるまでこんなに桜が多かったとは少しも気付かず・・・
花が咲いてその豪華さに驚きました!
お花見ができそうなロケーションでした。
弊社にお越し頂いた後は、是非お立ち寄り下さい(^^)

場所:JR千代川駅

桜,さくら,サクラ

▼2012年03月29日 天満宮(小林神社)
千代川町の天満宮(小林神社)へ出かけてきました!
この神社には言い伝えが2つあるそうです。
まず一つ目は・・・「管公腰掛石」!
菅原道真が園部から京へ帰る途中に里長の家で休憩をしたのが神社の起源と伝えられています。
石を写真に撮ってみましたが・・・確かに座りやすそうな形ですね(^
^)
これに由来して、当社は「休み天神」とも言われるそうですよ。
二つ目は・・・「操桜」!
江戸時代・・・出稼ぎに出たまま何年経っても戻らぬ夫を待ちながら、於長は2人の子どもをかかえ針仕事と畑仕事をしながら暮らしていました。
ところがその夫は、江戸で新たな妻を迎えて暮らしていると連絡が届きます。
しかし於長は、夫が大切にしていた桜の木を夫と思い大切にし、一生懸命働いて子どもを育て上げました。
このことからその桜を「操桜」と呼び、その後も2世桜を植えて大切に見守ったそうです・・・。

場所:亀岡市千代川町小林

天満宮(小林神社)

▼2012年03月15日 大原神社
国道9号線から見るとただの森にしか見えませんが、反対側から入ると鳥居と祠がある・・・大原神社へ出かけてきました!
祀られているのは伊邪那岐命・伊邪那美命です。
その昔、丹波の高野林に大きな地震があったそうです。
人々はその被害に嘆き恐れましたが、ある時、長の夢に神様が現れて「多賀の神」を祀るようにお告げがありました。
そのお告げに沿ってお祀りしたところ、収穫の多い年が続いたとのことです。
2012年3月現在、私が訪れた時は残念ながら改修中でした!完成したらまた改めて訪れてみたいと思います(^^)
場所:千代川町高野林

大原神社

▼2012年02月23日 岩城神社
先日の、とある大雪の日、干代川町にある岩城神社へ出かけてきました!
この神社、亀岡城主だった明智光秀が八木城攻めの時に、戦勝祈願をしたのだそうです。
本殿横には、普通の狛犬よりかなり細めの、少し変わった狛犬が鎮座していました(^^)
毎年9月には厄災を除く神事「湯立祭」が行われています。
神前で大きな釜に湯を沸かし、中に塩・酒をふり入れ清めた後、笹をつけて湯をふりまくのだそうです。
機会がありましたら是非ご覧下さい!

場所:干代川町北ノ庄

岩城神社

●宮垣神社●
≪千代川町川関宮ノ前2≫

山陰街道を通る京への旅人は、必ずここを参拝してから老ノ坂峠を越えました。
一度は明智光秀の兵火で焼けてしまいましたが、その後再建されています。
延命長寿・縁結びで名高く、イザナギ・イザナミを祀っていることから歴代の藩主・領主の信仰の厚い神社でした。


●岩城神社●
≪千代川町北ノ庄鳴滝42≫

1560年、亀山城主だった明智光秀は、八木城主の内藤氏と戦っていましたがなかなか勝敗が決せず、数々の戦の後この岩城神社にに戦勝祈願したそうです。
その後北ノ庄から攻め上がり、一気に落城させたのは有名な話です。


●天満宮社●
≪千代川町小林北ン田108≫

菅原道真を祀った天神、天満宮は全国各地にありますが、それぞれに色々な縁起が伝えられています。
この千代川町小林の天神は別名を「見返りの天神」と言われています。
管公が筑紫で亡くなった時、園部の源蔵の所に神霊が現れ、源蔵に短冊を賜りました。
源蔵はお供を申し出たのですが許されなかったので見え隠れにお供をしていたところ、この地小林まで来た時に神霊が振り返り「ついてくるな」と言われたのでここに御霊をお祀りしたそうです。
こんな話から「見返りの天神」と呼ばれるようになりました。
源蔵はかつては管公に仕えていた人物でした。
その他、祭神の菅原道真が丹波の国船井郡園部へ下行される時、必ずこの天満宮社で休憩されたため、「休み天神」とも呼ばれています。
石鳥居の前のどことなくユーモラスな狛犬がなごませてくれます。

天満宮社には「操桜」があります。
以前この地域に大工の久助と妻の於長(おなが)、その二人の娘が暮らしていました。
久助は怠け者で、ある日仕事に行くと言って江戸へ行ったきり帰ってきませんでした。
於長は自ら働いて生計を立て娘を育て上げ、夫の愛した桜の木を大切に育てました。
於長が他界するとその桜も枯れてしまったそうです。
村人はその枯れ木を「操桜」と呼び、於長を褒め称えたそうです。
その後、その桜の根元から芽が生えてきたので、移し変えたのが今の「操桜」だと言われています。
この塚に参ると浮気が封じられると言われ、浮気封じの塚としてこっそり訪れる人が増え静かなブームになっています。


●小松寺●
≪千代川町千原東斉ノ本23≫

このお寺の境内には観音堂があり、このお堂には平重盛の守本尊であったと言われている石造の観音像の懸仏が祀られています。
お寺の名前を「小松寺」というのは、重盛が小松内府と言われたことからこの名がつけられたのだとも言います。

何故このお寺に重盛の守本尊があるのかと言いますと・・・
昔千原村に住む妙善が重盛に仕えて大変可愛がられ、妙善が故郷へ帰るにあたり重盛が大切にしていた守本尊をもらったため、村へ帰りこのようにお祀りしたと言われています。
この石像は重盛が中国の育王山へ砂金を送り、その時青龍寺から重盛へ送られてきた石像とのことです。
※平重盛・・・平安時代末期の武将で、平清盛の嫡男。

●北条時頼の瓜●
≪千代川町の伝説≫

北条時頼が諸国行脚の途中、亀岡市千代川町の街道を歩いていた時、飲み水がなくのどが渇いて困っていました。

付近の瓜畑で老婆が瓜の手入れをしていたので、瓜を一つ所望したところ、老婆は「よろしゅうございます。しかしこれは初物でございますので、しばらくお待ち下さい」と言って、先に1個を太陽様に備え、次の2個目を天子様、3つ目を鎌倉の北条時頼様、次を土地の神様へと次々備えてから、旅僧姿の時頼に瓜を渡しました。

この様子を見ていた時頼は大変感激し、鎌倉へ帰った後老婆を鎌倉へ呼んでお礼を言いました。何でも望むものを与えると申したところ、老婆は自分の家の前を通る人に銭1文づつ置かせて欲しいと言ったので、その後はその通り通る人が1文置くようになったそうです。


●大井川の主●
≪千代川町の伝説≫

昔々福知山の男が京都に来て、用を済ませ丹波へ帰ろうと桂川の橋へやってくると、美しい女が立っていました。
通り過ぎようとする男に「どこへ行かれますか」と尋ねてきたので「福知山へ帰ります」と答えたところ、「では八木町をお通りになりますね。すみませんがこの手紙を少し手前の千代川の川関に投げ込んで下さいな」と頼まれました。
お安い御用ですと早速引き受け亀岡へ来ましたが、川へ手紙を投げ込んで一体どうなるのか不思議に思い、思い切って手紙の封を破り読んでみました。
驚いたことに、「先日は大変ご馳走になりまして、すみませんでした。
今度良い人間が見つかりましたので、お約束により差し上げます。桂川の主より。大井川の主様」と書かれていました。

万一この手紙を約束どおり川に投げ込んでいたら、命がなくなるところでした。
男は命拾いしたと喜びながら、千代川の川関を過ぎていったそうです。

亀岡市畑野町の歴史

亀岡市畑野町

▼2012年11月22日 法常寺へ出かけてきました!
紅葉が綺麗なことで有名な、法常寺へ出かけてきました!
夏の終わりに出かけたため、残念ながら紅葉の季節にはいささか早すぎましたが、緑が大変綺麗でした(^^)

周辺は山に囲まれた、けっこうな山奥です。
頂上はけっこうな高台にありまして、下を覗くと怖いくらいでした。
周りが山林で木々が茂っているのですが、木の緑色が大変綺麗です。
秋になって紅葉すればきっとすごく綺麗なんだろうなあ・・・と想像できるような景色でした。
今の時期、丁度紅葉で綺麗かもしれませんね^^

場所:亀岡市畑野町千ヶ畑藤垣内1

法常寺

●西山神社●
≪畑野町千ヶ畑西山1番地1≫
昭和40年代の初め頃から交通安全祈願祭を行っています。
祈願者は毎年増加し、現在は100台以上のお払いを行っているそうです。
夏祭りでは拝殿で詩吟・民謡・三味線などが盛大に奉納されています。

「歳ふり」は五穀豊穣を祈る行事で、毎年1月3日早朝に本殿前に「樒」を持った氏子が集合します。
その年の「恵方」に向かって6人衆の唱える「大歳小歳三妙黄金鈴の稲粒五尺の穂たけエンゲン」に「ワハハ」と唱和、初笑いをして豊作を祈ります。


●八幡宮社●
≪畑野町土ヶ畑東26番地≫

亀岡市の西北端に位置し、大阪府境です。標高は528メートル、土ヶ畑の一番高い位置に南向きで鎮座しています。

拝殿の一角に昔から絶えずある湧き水はこの里随一の美味しさで、旱魃に強いことでも有名です。神殿に参拝する時は必ずこの湧き水で口をすすぎ、手を洗い清めます。

昔からの伝統ある風習として、夏祭りと秋祭りには子どもたちによる「お千度」があり、氏子の各自の手料理で子どもと氏子の会食を今でも続けているそうです。

亀岡市稗田野町の歴史

亀岡市稗田野町

▼2011年5月21日 龍潭寺
時代劇は全く見ない私ですが・・・またまた亀岡で時代劇ロケ地としてよく使われる龍潭寺へ出かけてきました!
銭形平次、眠狂四郎、暴れん坊将軍、子連れ狼、水戸黄門・・・知らない人はいない有名時代劇でたくさん使われているのだそうです。
もの静かなロケーションで、特に、山道から見える木造の山門が緑と相まって本当に綺麗です^^
この山門は時代劇でもよく見かける(寺や関所として撮影に使われるそうです。)とのこと・・・実物は情緒感たっぷりの素敵な山門でした・・・
私の拙い撮影技術が本当に悔やまれます・・・。
池や墓標や巨石の林や、確かにロケ地として色々な使い方ができそうです!

場所:亀岡市稗田野町太田

龍潭寺

▼2010年10月16日 稗田野神社
無形民俗文化財の佐伯郷燈籠祭が行われる稗田野神社を初訪問しました!
大きな鳥居をくぐって境内に入ると、ご利益のありそうな様式がたくさん!
①悪病を封じてくれる「癌封じ瘤の木」
②願いを達成する気力がわく「石の環くぐり」
③滝口から出る「長寿の水」
④意欲と気力がわいてくる「必勝願掛け石」・・・etc。
数十分ほど滞在しただけですが、何やら心身がリフレッシュしてやる気が湧いてきた様な・・・。もの静かで落ち着きのあるおすすめスポットです!

場所:亀岡市稗田野町佐伯垣内亦1

稗田野神社

▼2010年10月2日 亀岡市ひえ田野の桜天満宮
天然記念物の桜石を見に、いざ車でひえ田野町へ!
・・・と勢い込んだのは良いですが、入り口が見つかりません・・・。
車でうろうろ、歩いてうろうろ30分、ようやく入り口を発見。
案内板も一切ない、普通の小さな山道入り口でした。私の拙い運転技術で発見できたのは奇跡です(笑)
さて桜天満宮に到着、地表に桜石が多数露出しているはずなのですが・・・迷っている間に夕闇が迫っていまして、見つけることができませんでした。
残念!次回こそは!

場所:亀岡市ひえ田野町柿花 桜天満宮

桜天満宮

●ヒエ田野町●
丹波の奇祭として有名な「佐伯燈籠」や、天然記念物「菫青石」(桜石)が産出します。

昔から湯の花という地名で呼ばれている「湯の花温泉」は、昔傷ついた兵士が秘かに刀傷を癒した温泉とも伝えられています。

鹿谷の山から出る「タングステン」は戦中盛んに採掘されましたが、現在では閉山されてしまいました。


●河阿神社の狒々●
≪ヒエ田野町の伝説≫

河阿神社の森の中に昔1匹の大狒々が住み着き、毎年村の娘を一人ずつ食べていました。当時は村の家に矢が立つと、神様のお召しだとしてその家の娘を白い布に包み箱に入れて神前にお供えしなければなりませんでした。

ある時村人や家の人が泣き悲しんでいる所へ通りかかった武士が事情を尋ねました。
話を聞いた武士は「わしが助けてやろう」と言って村人にたくさんお酒を用意させ、娘の身代わりとなって箱に入り神前に運ばせました。

真夜中頃に大狒々が現れ、まずお酒を飲んでから娘を食べようと思い酒を飲み、酔い潰れてしまいました。
武士はその隙に大狒々を殺してしまいました。

この武士が岩見重太郎であったという一説もあります。


●独鈷抛寺のいわれ●
≪ヒエ田野町の伝説≫

ヒエ田野町鹿谷に独鈷抛山千手寺という臨済宗のお寺があります。
俗にこの寺を独鈷抛寺(とこなげ寺)と言います。
同寺の伝説によると次のようないわれがあるそうです。

弘法大師が唐から帰朝される途中の船の中で手に持っていた独鈷を高く放り投げました。
帰朝後奈良の春日神社に参り、神託によってこの地に来て大樹にひっかかっていた独鈷を見つけ、このゆかりで創められたのが千手寺だということです。
弘法大師は春日神社の神鹿が先導してこの地へ来たため、この地を「鹿谷」と呼ぶのだそうです。

この千手寺に登る道に屏風のような岩が3枚あり、ここで転んでしまうと3年目に死んでしまうと言います。

また、山頂には観音岩と呼ばれる岩があり、次のような話が伝えられています。

むかしこの岩に白い鳩が止まっていたところ、男が射た矢が鳩の目を貫きました。
そのまま鳩が飛び去ったのでその血の後を追いかけると、独鈷抛寺の本堂に続いていました。
これは観音様が白鳩に化けていたもので、そのため同寺の観音様は片目であり、眼病に霊験があると言われています。白鳩を射た人は間もなく亡くなりましたが、その子孫は目を病むと言われ、また、兄が矢を引けばかならず弟の目に矢があたると伝えられています。

●ヒエ田野神社●
≪ヒエ田野町佐伯垣内≫

稗田野町と吉川町にまたがる旧佐伯郷の4社(稗田野神社・御霊神社・河阿神社・若宮神社)が合同で行う盆行事に「佐伯灯籠」があります。

佐伯灯籠は、五穀豊穣(ほうじょう)を願う地域の祭りとして始まり、神事と盆行事が結びついた全国でもめずらしい祭りです。
京都府の無形民族文化財に指定されているほか、文化庁の「記録作成などの措置を講ずべき無形民俗文化財」にも指定されています。

祭りは、農作業の様子を表す人形が飾られた役灯籠がみこしとともに力強く巡行。
台灯籠という小さな舞台の上で、独特の動きをする串人形を使って人形浄瑠璃も行われます。
また、夜には、みこしが灯籠を追う「灯籠追い」や太鼓とみこしがぶつかり合う「太鼓掛け」が行われるなど、一日多くの人でにぎわいます。

●河阿神社●
≪ヒエ田野町柿花宮ノ奥8番地≫

当神社は約2000年前に九州方面から移住してきた南方系の採鉱治金術を知った部族によって創始されたのではないかと言われています。
それはご神体が蛇骨であったことや、人身御供の伝説があることからも類推されます。

天正5年に明智光秀が亀山城築城のため各地の寺社を取り壊し築城の材料を集めた時に当神社も壊滅状態にされましたが、20年後くらいに復古されています。


●桜天満宮●
≪ヒエ田野町柿花≫

右大臣菅原道真公の近臣に、ヒエ田野町の鹿谷が郷里の高田若狭之介正期という忠義者がいました。
道真が時の左大臣藤原の時平により左遷させられる時、彼は道真から形見として長年寵愛した桜樹を賜りました。

それより300年後、寺の守護神として境内に植え替えたところ、奇怪にも桜樹の下の岩に桜の花びらの形が現れました。
神慮により、桜の樹は枯れるので岩石に花の紋を残されたと書にはあります。

現在は国の天然記念物として「桜石」(正式には「菫青石仮晶」)と呼ばれ、日本有数の優美な花形と金銀色彩を楽しませてくれます。

亀岡市東別院町の歴史

亀岡市東別院町

●東別院町●
亀岡市の最南端部にあるのが東別院町です。
市街から茨木市に通じているため、大阪万博の頃からこの道の通行量が増え、市街から大阪へ車で通勤する人も多くなっています。

江戸時代にあって倹約を説き商人道を講じた「心学」の石田梅岩の生誕の地です。


●春日神社●
≪東別院町東掛一アン6番地≫

明治43年、現在の春日神社に移転するため八幡宮の社屋をその場で焼却したところ、焼却中に大異変が起こり、轟々と旋風が吹きすさび、何とも例えようのないもの凄さだったという言い伝えが残っているそうです。

なお、その棟木に歌が一種あり、「朝日輝くトガの尾(またはトラの尾)の三つ葉つつじのその下に黄金千両埋め置く」と書いてあったので、当時は宝探しブームが起こったそうです。ただし誰も掘り当てた人はいなかったとか・・・。


●小滝神社●
≪東別院町大野桧用≫

境内には小宮が二つあり、弁天さん紙魚明さんが祀られています。

弁天さんは七福神の一人の女神さんで、水の神様だったため、ため池により大部分の田んぼを養っていた当時の状況で旱魃の被害を避けるために加護をお祈りしたようです。

紙魚明さんは、江戸時代に年貢の記録帳にある石高の文字の一部が紙魚という紙を食べる虫により食べられて消失してしまい、年貢が大変に減ぜられたことに感謝してお祀りするようになったと言い伝えられています。
徳川幕府の封建社会の圧政に苦しむ農民のエピソードとしてとても面白い神様です。


●徳神社●
≪東別院町神原≫

大昔の亀岡盆地は大蛇が住む泥湖であったと言い伝えられています。
そのころの出雲の大神達が、霧の立ち上る湖が見渡せる高台に集まって色々相談され、現在の高槻市に繁るカシの木で舟を作り、鋤や鍬で「諸田」の谷を切り開き、泥水を流し込んで現在の肥沃な亀岡盆地が生まれたと言われています。

この大事業を計画した神々が集まった所が「神原」であり、その神々のご神徳をあがめて祀ったのが神原にあるこの徳神社です。
祭神は山林農耕の神として崇敬されています。

「朝日輝き夕日照る所に黄金の鶏が埋めてある」と昔から神原の人たちが伝えてきた黄金伝説は、もとの神社付近になり(現在は今の場所に遷座しています)、子孫に大きな夢とロマンを与えています。


●稲荷神社●
≪東別院町倉谷東谷55≫

亀岡市の南端で標高320mの高地にあります。
12月5日の御火焚祭りは有名で、その夜は社務所の庭で大火を焚いて豊作を祝うのですが、その日に必ず初雪が舞うのはなんとも不思議なことです・・・。


●玉依神社●
≪東別院町湯谷岳山29-1≫

古老の口伝によると、昔小野小町が当地に来て薬師堂に参籠し湯浴みをしたということです。
この地は往古に湯泉が湧き出たことがあり、祭神は温泉の守護神です。


●鎌倉神社●
≪東別院町鎌倉見立11番地≫

亀岡市の南端で大阪府との境の標高400mの高原にあるため、見通しの良い日には亀岡盆地や大阪湾方面が見えます。
225段の石段は巾2mの花崗岩で整備され、丹波地区では稀に見る階段であるということです。

古老の伝によると、昔信仰の深い農夫婦がいました。
子宝に恵まれなかったので毎日神社にお参りして祈願していたところ、ある夜夢のお告げにより川で拾った瓜から小さな女の子が生まれました。
目に入れても痛くない程可愛がって育て、美しく成長してお嫁に行くことになりました。
ところが両親がいない間に近所のいじわる爺さんがやってきて娘を木に縛りつけ嫁入りを妨げようとしました。
すると一羽の鳥が飛んできて娘を助け、娘は無事に嫁入りをして幸せな家族を築けたということです。
この伝説からも、安産の神様であり、農の神様であり、知恵の神様、商売繁盛の神様であるということです。

亀岡市本梅町の歴史

亀岡市本梅町

▼2012年09月22日 風尾八幡宮
前回、本梅町の加舎神社へ出かけた帰り・・・道を車で走っていると、たまたま小さな鳥居を発見しました(^^)
鳥居からは小さな階段が上方へ続いていまして、本殿らしき建物が見えます。 早速お参りです!!
こんな時にスマートフォンは便利ですね!調べてみると「風尾八幡宮」でした♪
御祭神は応神天皇だそうですが、看板等は一切ありませんでしたので残念ながら由緒は不明です。
話は大分逸れますが・・・風尾八幡宮前の田園風景がとても素敵でした。
一面の田んぼと遠くの山々が障害物なく見渡せる絶好の観賞ポイント・・・。
田舎好きにはたまらない景色です^^

場所:本梅町西加舎

風尾八幡宮

▼2012年09月15日 加舎神社
本梅町の加舎神社へでかけてきました!
普通の道の横にあるのですが、回りをこんもりした森(木々?)囲まれているため、正面から回ってみないとそこにあることが分かりませんでした(^^;A

創建は平安時代だそうですが、その後戦国時代に、明智光秀の丹波平定の際の兵火により焼失してしまったそうです。
その後再建され、現在の地に移されたのは徳川幕府の時代でした。

先日ご紹介した宮川神社といい、今回の加舎神社といい、亀岡は光秀の戦関係で焼失した寺社が本当に多いですね。

場所:本梅町西加舎

加舎神社

●八幡宮●
≪本梅町中野小向≫

男子の守護神として崇拝者が多くいます。
1月19日の厄神祭には自動車の交通安全祈願祭を行い、中野区の全自動車に交通安全守を授与し、また他区他町からの参拝者にも授与するため、参詣者が多くいます。


●廣峯神社●
≪本梅町中野堀釜≫

天正年中に明智光秀の乱により古記録を焼失してしまいましたが、本殿はその後無事再興されています。

特殊神事としては例祭日(10月16日)に宮の党の神事があり、徳川中期から始められた祭事で、戦前は全党員にお酒を五合ずつ振舞ったそうですが、今は省略されて代わりにお餅を配っているそうです。


●加舎神社●
≪本梅町西加舎森ノ上≫

本殿は桧皮葺流造りで徳川後期の建築ですが、彫刻などは精緻を極めており建築も整っていて、亀岡市内有数のものであると言えます。

平安時代より加舎ノ荘という名前の、当時摂政であった藤原忠道が娘崇徳天皇の中宮皇嘉門院に進めた荘園であったせいか、丹波では古くから文化が開けた土地であり、古代からの生活様式や遺制などが残っている所もあります。
そのため当神社の例祭の宵夕御食渡御、氏子巡幸は勇壮で、お神輿は特に立派なものであり、亀岡市の神事、お神輿の中でもトップクラスのものだと言われています。

亀岡市保津町の歴史

亀岡市保津町

▼2013年07月07日 保津百景 どんどんおろしの坂
保津百景の一つ、「どんどんおろしの坂」です!
少し勾配が急なもののいたって普通の坂なのですが、ここは毎年行われる「保津の火祭り」の練り場なんです!

保津の火祭りとは・・・
毎年10月に行われる保津町の請田神社と八幡宮社の例祭で、両神社間を花傘・太鼓・榊・剣鉾:神宝・行灯・松明などを持った人が練り歩くんです。
また、保津八幡宮の頓宮前では火が焚かれていまして、その回りを「あつい・あつい」と言いながら3周をまわると言う伝統的な習わしもあります。

火を使ったお祭り、とても迫力がありそうですね!
保津の火祭りを特集した記事を見ていると、まさしく「勇壮」という言葉が似合うような、そんな雰囲気でした(^^)

場所:亀岡市保津町 八幡宮社の近く

どんどんおろしの坂

▼2013年06月02日 保津百景 水車跡
「保津百景道しるべ」の一つ、水車跡へ出かけてきました!
すぐ横には「悪病・疫病封じの六地蔵」があります。
2~3mがありそうな大きな木製の水車が元気に稼動していました!
なかなか日々の生活で水車を見ることはありませんが、じーっと見つめていると和みますね。
亀岡のクニッテル通りには、古くからの水車跡が看板で残っているのですが、そちらは本当に「跡」だけで実物はありませんので、保津で見られて良かったです(^^)

場所:亀岡市保津の田んぼ 保津百景道しるべ

保津百景

▼2013年05月30日 保津百景 六地蔵
「保津百景道しるべ」の一つ、「悪病・疫病封じの六地蔵」へ出かけてきました!
もう一つの名所、水車と一緒に、田んぼの真ん中にありますので、遠くからでもすぐに見つけることが出来ました!
屋根付きの小屋に鎮座するお地蔵さんは確かに6体。
お供えのお神酒がありましたので、どなたかが日々お供えに来られているのでしょうか?
田んぼに囲まれたロケーションが大変綺麗で、散歩がてら訪れるにはいい場所ですね(^^)

場所:亀岡市保津の田んぼ 保津百景道しるべ

保津百景

▼2012年04月07日 旗立楊
篠村八幡宮横にある旗立楊(はたたてやなぎ)です!
1333年5月7日に足利尊氏がここ「篠村八幡宮」で挙兵し、鎌倉幕府を倒しました。
1万騎あまりの軍をこの地に集結させ、戦勝祈願の源願文と鏑矢を献上し、 そしてこの旗立楊に白旗を立て、六波羅探題を攻め倒したとされています。
以後この楊は挿し木をして受け継がれているのだそうです。

場所:亀岡市篠町 篠村八幡宮横

旗立楊

▼2012年03月31日 保津八幡宮
保津地区では、2つの神社を祀っています。
その内一つが2012年01月14日にご紹介しました、請田神社。
そしてもう一つが、今回出かけてきた保津八幡宮です(^^)
10月には両神社合同で「火まつり」が行われています。

保津の火祭り・・・
五穀豊穣を祈願して行われ、保津八幡宮と請田神社を、花傘・太鼓・榊・剣鉾:神宝・行灯などを持った行列が往復します。
保津八幡宮の頓宮前では火が焚かれ、火の回りを3周をまわると言う伝統的な習わしがあり、「あつい・あつい」と言いながら、皆さんが回ります。

境内には保津の名木である「保津八幡の楠」や、古めかしい情緒たっぷりの鐘楼などもありました^^

場所:亀岡市保津町宮ノ上21

保津八幡宮

●保津町●
牛松山のふもとに散在する保津町は、古く嵯峨天龍寺造営の頃から保津川を筏で下流の京都へ木材を運送した歴史とともによく知られた町です。
昭和も戦後となり陸上トラック輸送の発達から筏下りは姿を消しましたが、遊船が川下りの観光産業にかわって伝統的な渓谷下りの技能を継承し、全国的にも有名な「保津川下り」として発展しています。


●オツト岩●
≪保津町の伝説≫

請田神社の道端に大きな岩がありますが、里人はこれを「オツト岩」と呼んでいます。

昔、牛松山の金比羅様が大きな岩を転がされると、岩は谷を越え山を越えて転がって愛宕山に突き当たり、またはねかえって今ある所まで転がってきました。
丁度その時、靖田の神様が騎馬でその場を通りかかり、持っていた扇で「おっと」と掛け声とともにこの岩を受け止めました。
そのため岩はその場所に留まり、扇の形がついたといいます。


●女夫墓●
≪保津町の伝説≫

今はあとかたもなくなりましたが、昔、亀山城保津門を出た畑の中に塚があり、そこに2本の椿が根元から3尺ばかり上で一つに結ばれて生えており、その木の根元に小さな仏様を刻んだ石があったそうです。

松平候の小姓で稲尾という男が殿様の侍女と仲良くなったのですが、ある時恋文を誤って落としてしまったのを殿様に見られ、二人は大層怒られて別々の場所に閉じ込められてしまいました。

そこで2人は二度と会えないと思いある日壁を破り二人で牢を破って逃げ出しました。しかし城の堀は深く七重八重の扉を越えることはできず、追っ手に捕まり2人とも殺されてしまいました。

その塚から2本の椿の芽が出て結び合ったものだと言います。


●乳母ヶ淵●
≪保津町の伝説≫

むかし亀山(亀岡)に青山という大名がおり、1人の男子生まれ乳母が一人ついて大事に育てていました。

ある日、乳母がその男の子を連れて保津川に遊びに行った時、ふとしたことで男の子は川へ転落して流されてしまいました。
乳母は大声で救いを求めましたがその甲斐もなく男の子は溺れ死んでしまいました。
乳母は殿様に申し訳ないと嘆き、直ちに川へ身投げして死んでしまいました。

それから雨になると乳母が投身自殺した所、俗に乳母ヶ淵から青い火が出て保津橋の付近をうろつき回るということです。


●嫗ヶ火●
≪保津町の伝説≫

むかし保津川に一人の老婆が住んでいました。 遠い国の人の赤子を貰い養うことを目的で大金の代償を受け取っていました。

しかし老婆はあくどく、赤子を育てずに保津川に沈めていました。
初めのうちは知られていませんでしたが、いつの間にか事がばれてその老婆は処刑させられました。

その後老婆の悪念が迷い凝り固まって火となり、雨の夜は特に月のない夜でも保津川を照らし、山の峰々を駆け巡っては消え、丁度翼のあるもののようであり人々に恐れられたと言います。


●靖田神社●
四面を山に囲まれたこの丹波平野は昔は赤い泥水湖水が漂っていたのだと思われ、これが「丹波」の名の起源だとも言われています。

大山昨命(オオヤマグイノミコト)はこの東の山峡を切り開けば良い平野ができると考え、鋤を持ってきて開拓し湖水を山城平野に流しました。
これにより丹波平野ができたと言われ、切り開かれたところが保津峡です。

大山昨命は丹波開拓の大恩人ですので保津峡の河口の東に社殿を建立、鋤を神宝として神功を讃え丹波の鎮めと神霊を祀ったのが当神社です。


●金比羅神社●
当神社は保津川の山頂に鎮座しています。

保津町の崇敬神社で、ことに保津川下りの舟を扱う人たちの信仰があつく、毎年1月10日、10月10日の金比羅さんの日には登山して祭典を執行しています。

亀岡市河原町の歴史

亀岡市河原町

▼2012年02月18日 極楽寺
車で付近を走行中、たまたま見たことのないお寺を発見しました!
幸せが舞い込んできそうな名前の、「極楽寺」です。
なんでもこのお寺、歴史が古く、開闢以来560年以上の歴史を持つのだとか・・・。
安産の願いをこめた子安地蔵が有名なのだそうです。
「極楽寺」の名前も相まって、元気なお子さんが授かりそうですね(^^)

場所:河原林町勝林島

極楽寺

▼2011年3月19日 若宮神社
「若宮神社」を探して車でウロウロすること10分程・・・地図もカーナビも合っているのに神社が見つかりません!
回りは田んぼだらけなので見つからないはずはないのですが・・・。
ふと横を見るとこんもりとした森があるではありませんか。
もしやと中に入ってみると、ありました、若宮神社。
外から眺めているだけではとても中に神社があるなんて分かりません・・・。
入ってみると少し荒れたお社がありましたが、周りは田んぼばかりで人気も少なく、なんとなく寂しい感じの神社でした。
江戸時代には祭競馬が行われていたそうです。

場所:亀岡市河原林町勝林島

若宮神社

●勝林島の薬師●
≪河原林町の伝説≫

昔ある年、大井川に大洪水が発生した時、有本という田に一体の仏像が流れ着きました。
そこで村人はその仏像を河原林の勝林島の極楽寺にお祀りしました。
ところが不思議なことに、上島に病人がある時には下島になく、反対に下島に病人がある時には上島にはなかったので、当医王善逝とも称されました。
また、極楽寺に納めてからは洪水の難を逃れたので、一名「水除け薬師」と言われています。


●日吉神社●
≪河原林町の伝説≫

≪河原林町河原尻才の本22番地≫

摂社の鈴の宮社は病気平癒などにご利益があると言われ、宮裏にある霊泉(真名井)が治病に効くとのことで、参拝者が竹筒で持って帰ったと言われています。
この井戸は枯れたことがなく村人の命水とされてきました。


●若宮神社●
≪河原林町勝林島≫

勝林島は亀岡盆地の低地帯に位置し、大井川が洪水になればたちまち水没してしまいます。
上島中島下島と3つの島名の集落からなるように、大変水に関係の深い土地です。

創建年月日は不詳ですが1000年は経っていると思われます。
伝説によると大山昨命が丹波の国に来られた時、鯉で大井川を遡る途中勝林島領有本に停まられたので里人がこれを祀ったそうです。

石造りの大鳥居は明智光秀の居城に向けて光秀の命により作られましたが、創建年月日は不詳です。

亀岡市旧町の歴史

亀岡市旧町

▼2013年06月15日 亀山城跡
亀山城跡へ出かけてきました!前回で出かけたのは昨年の紅葉の季節でしたが、 今は新緑が大変綺麗な時期です。
連日真夏日が続いていますが、避暑散歩にはいい場所です(^^)
この亀山城を築城した明智光秀を大河ドラマ化する署名活動がありまして、署名数は順調に伸びている様子です。
2013年5月現在約40,000署名・・・もうそんなに増えたんですね!
目指せ10万署名!

場所:JP亀岡駅前 亀山城跡

亀山城跡,明智光秀

▼2013年03月09日 本町分譲地裏の天満宮
3月9日、本日は大変いいお天気!
弊社にて現在分譲中の亀岡市本町(旧町)分譲地まで、写真を撮りに出かけてきました!
この辺りは周りにお寺がたくさんあるのですが、その内の一つ、分譲地のすぐ裏にある天満宮横で、咲きかけの梅の花を見つけました(^^)
少し濃い目のピンクが大変綺麗な梅でした。
まだまだほとんどが蕾ですが、一つだけ咲いている花を発見♪
もう季節は春ですね・・・これからどんどん開花して満開になるとさぞ綺麗なことでしょう!!
分譲地を見に来て頂いた方は、是非その裏の梅の花もご観賞下さいませ!

場所:弊社 亀岡市「本町」分譲地 裏

天満宮

▼2013年02月03日 亀山城跡
何度か見て歩きで登場した亀山城跡、ここは秋の紅葉の綺麗さでも有名だと思います!
昨年秋に紹介しそびれたのですが、2012年の紅葉も大変綺麗でした!!
人通りもあまり多くないので、ゆったり境内を歩きながら観賞できるのが嬉しいですね^^
2013年1月、もうすぐ梅の時期です。
城跡の表通り、入口の少し右辺りに梅林がありまして、毎年紅白の梅が綺麗に咲いています!!
今年もまた出かけたいと思います♪

場所:南郷公園裏 亀山城跡

紅葉,亀山城跡

▼2012年11月17日 旧町の聖隣寺!
旧町の聖隣寺へ出かけてきました!
入口にちょっと不気味(?)でユーモラスな像があってびっくりしました(^^)
境内には織田信長の供養塔があるそうですよ。
明智光秀が大山崎の合戦で敗れた後、亀岡は豊臣秀吉の支配地となり、豊臣氏の重臣が城主として配置されたのですが、その中の一人に、秀吉の養子となり羽柴秀勝として亀山城主に配置された織田信長の四男於次丸(おつぎまる)がいいました。
供養塔はその秀勝が父信長の菩提を弔うため建立したのだそうです。
さすが歴史溢れる亀岡旧町、光秀、信長、秀吉など有名人関係のエピソードがたくさん出てきて、興味深いですね♪

場所:亀岡市西竪町

聖隣寺

▼2012年11月10日 亀山城下のお堀跡!
亀岡旧町のお堀です!
城下町の面影が残る旧町にはたくさんのお堀跡がありますが、このお堀は亀岡城南東の三重目のお堀、一番外の堀にあたります。
このお堀の外にちょうど足軽屋敷や御旗・同心組の組屋敷がありました。
敵襲の際には真っ先に駆けつけられる位置ですね。
亀岡城下町には亀山城の堀の跡がたくさん残っていますので、散歩がてら辿ってみるのも楽しいと思います(^^)
そういえば、小さい頃通っていた亀岡小学校の裏側にも小さなお堀がありましたよ♪

場所:亀岡市西竪町 聖隣寺の横

堀

▼2012年11月03日 稱名寺!
琉球に渡った袋中上人が建立された・・・亀岡西竪町の「稱名寺」へ行ってきました!
境内にはなんと、東別院町の小泉から移されたとされる、平安時代中期の女流歌人、和泉式部の墓と言われる五重宝きょう印塔があるのだそうですよ♪
一度は亀岡城下の大火で焼失してしまったのですが、その後無事再建されたようです^^

場所:亀岡市西竪町20

稱名寺

▼2012年10月28日 嶺樹院!
亀岡藩主菅沼定芳公の母君が先祖を弔うために建立された「嶺樹院」へ出かけてきました!
場所はスーパーマツモトの裏手ですが、少し道を入った所なので見つかりにくいかもしれませんね。
このお寺には菅沼定芳公の宝物で中国の碧眉(或いは顔輝)の筆と伝えられる「達磨半身図」が伝来しているのだそうです!
毎年11月5日頃の達磨忌の法要ではその図が見られるそうですよ^^

場所:スーパーマツモト中央店裏手

嶺樹院

▼2012年05月12日 旧町の丹山酒造
亀岡市旧町にある、丹山酒造さん!
酒造の無料見学もOKで、亀岡の観光スポットの一つになっています^^
お酒があまり飲めない私ですが、酒造見学はいつかしてみたい・・・と思う今日この頃・・・。

ところで、造り酒屋さんの軒先でよく吊るされているのを見かけるボール状のもの、これが何かご存知でしょうか?
これは「杉玉」や「酒林(さかばやし)」と言いまして、杉の葉を丸く固めたものです。
酒造期に入って最初のお酒が搾られた時に、緑の杉玉を吊るします。
つまり、新酒が出来たことを知らせる役割を果たしているんです。
吊るされたばかりの杉玉はまだ緑ですが、だんだんと枯れて茶色くなってきますので、この色の変化が新酒の熟成の具合を表しているというわけです。

現在では居酒屋さんなどの飲食店さんの軒先きに飾られたり、酒好きの方が自宅に飾るケースもあるのだそうです。
確かに風情があっていいですね(^^)

場所:亀岡市横町7番地

丹山酒造

▼2012年05月10日 南郷公園の鯱瓦
亀岡駅前中央通を真っ直ぐ進んだ突き当り・・・南郷公園の入り口に、2体の鯱瓦が設置されています!
この鯱瓦(嘉永5年造)、元々は亀山城天守閣の家棟にあったものでしたが、明治11年頃の廃城とともに降ろされた後、明治13年に現在の京都府立医大の新築の際に寄贈されたそうです。
残念ながら2体の内1対は破損してしまったそうですが、残り1体は大学に保存されています。
南郷公園にある2体の鯱瓦はレプリカですが、愛嬌のある表情がとてもユニークでした!
公園の散歩道の新緑が大変美しい時期ですので、散歩がてら通りかかられた方は是非、鯱瓦も鑑賞されては如何でしょうか(^^)

場所:亀岡駅前南郷公園

南郷公園の鯱瓦

▼2012年03月09日 古世地蔵
先日、弊社新物件の荒塚町売土地のチラシ配りの最中に見つけた「古世地蔵堂」です。
ここには平安時代の武将、源頼政の守り本尊”矢の根地蔵”がお祭されているそうです。
縁起によりますと・・・
夜な夜な現われる鵺に悩まされた帝が、高僧に祈祷を命じるも効果がなく、武芸に秀でたものに警護をさせることになったそうです。
その時に選ばれたのが源頼政で、頼政は代々家に伝わる地蔵に祈願して見事鵺を退治したのだとか。
頼政が1180年宇治川の戦いで敗死した時、その亡骸は西つつじヶ丘の頼政塚に葬られ、この地蔵が”矢の根地蔵”としてこの地に安置されることになりました。
地蔵は一般的に錫杖を持っていますが、頼政の鵺退治が弓矢によるものであったことから、錫杖を弓矢に持ち替えた姿で表されているのだそうです!
ちなみに・・・
鵺退治での功績で頼政が丹波に得た地は、弓退治であったことから「矢代荘(矢田荘)」と呼ばれるようになったとのことです。
この「古世地蔵」といい、「頼政塚」といい、亀岡は源頼政に縁がある土地ですね(^^)
ちなみにちなみに・・・チラシ配布中の荒塚町売土地情報はトップのおすすめ物件にありますので、宜しければご覧下さい!!
場所:亀岡市旧町内 スーパーマツモト近くの交差点

古世地蔵

▼2011年12月10日 本門寺
本日のお寺巡りは、亀岡市本町の「本門寺」です!
法華宗の日蓮聖人の弟子日弁上人の鷲山寺(千葉県です)の表本山です。
本堂に「鷲大名神」が祀られているのですが、この「鷲大名神」、日蓮上人に由来するのだとか。日蓮上人が1265年に上総国の小早川内記の家に滞在し国家平穏を祈っていたところ、俄かに金星が明るく輝き出し、鷲妙見大菩薩が現れたのだそうです・・・。
実はこの本門寺のほぼ真ん前あたりで、新築を分譲させて頂いていました(^^)
現在はすぐ近くの旧町で物件を紹介中ですので、興味のある方は弊社までお問合せ下さい!

場所:亀岡市本町

本門寺

▼2011年12月03日 大圓寺
本日のお寺巡りは、亀岡市西町の「大圓寺」です!
亀山城主小早川秀秋に寄進された”五箇所寺”の一つでもあるのだそうです。
また、境内の薬師堂に祀られている薬師如来(亀岡市指定文化財)は”亀山薬師”とも呼ばれ、元々亀山城の天守付近に祭られていたんだそうですよ。
これは関西でも珍しい仏像なのだとか・・・一度見てみたいですね(^^)

場所:亀岡市西町

大圓寺

▼2011年11月26日 誓顕寺
亀岡市旧町のお寺巡り、本日は豪族有馬則秀が開祖の「誓顕寺」です!
境内には亀山藩を代表する文人として知られる、軽森野楊(かるもりやよう)のお墓があるそうですよ!
軽森野楊は亀山藩士で、松尾芭蕉の十哲の一人である榎本其角の俳風を亀山に伝えるのに活躍した人物。
参勤交代の道中や江戸において俳諧の人々と交流し、なんと当時の俳壇において”日本の三俳人”の一人にあげられていたそうなんです!
全然知りませんでした・・・勉強になります・・・。

場所:亀岡市塩屋町

誓顕寺

▼2011年11月19日 宗福寺
亀岡市旧町のお寺巡り、本日は春公麿が草庵として始めた「宗福寺」です!
法然上人の専修念仏に感動されて布教の拠点としたのがそもそもの始まりだそうです。
亀山城築城時には、城の末櫓として望楼を兼ねていたのだそうです!
城下町ならではのエピソードですね(^^)

場所:亀岡市矢田町

宗福寺

▼2011年10月22日 もうすぐ亀岡祭!
今年もついに「亀岡祭」の季節がやってきました!
23日の宵宵山、24日の宵山、そして25日の本祭。
亀岡祭に先駆けて、旧町内や亀岡駅前はお祭一色です。
駅周辺には灯り提灯などが飾られ、旧町内は上り旗と看板でいっぱいです。
写真は亀岡駅改札前の山鉾の提灯。私の他にも写真撮影をされる方が多数いらっしゃいました^^
亀岡祭と言えば、旧町内の方々が山鉾の組み立てやお囃子の練習をされますが、子ども心に「いいなあ」と思ったものです。一度友達と一緒に、本祭で山鉾を引かせてもらった事があります・・・
いい経験をさせて頂きました!
週末は雨の予報でしたが、3日間とも晴れてくれるといいですね♪

弊社の旧町内物件もございますので、宜しければご覧下さい♪
(→こちら)

場所:亀岡駅周辺

亀岡祭

▼2011年10月06日 専念寺
亀岡市旧町のお寺紹介、今回は「専念寺」です!
「専念寺」は織田信長の叔父であった源蓮社性譽上人を開山としています(^^)
1592年には亀山城主小早川秀秋から二石の寄進を受けた亀山五箇寺の一つに列されました。
1670年に亀山藩主松平忠昭の菩提寺となり、寺領20石の寄進を受けて以降、歴代藩主・城主の庇護を受け続けたのだとか。
城下の大火の類焼によりお寺の一部が消失したのですが、その時も藩主久世出雲守重之から木材の寄進を受けて再建されたのだそうですよ!
本堂に徳川二代秀忠、三代家光、四代家綱の位牌を祀っているため、供養料として歴代亀山藩主から寄進を受けていたそうです。
古くからの由緒あるお寺なのですね。

場所:亀岡市塩屋町

専念寺

▼2011年10月02日 正誓寺
亀岡市旧町のお寺紹介、今回は「正誓寺」です!
実は私の小学校の通学路に位置しているため、小さい頃は毎日のように傍を通っていました(^^)
ご存知の通り、亀山城下には、三宅・古世・中矢田・荒塚・安町・・・等の村々が組み入れられ、近隣住民を移住させるとともに商工業者を集めて町並みが造られました。
さらに城の南を取り巻く三重目の堀として築かれた惣堀の内側には土塁を築き、その内側に寺院を配置して有事には兵を駐留できるようにして防御の備えとしました。
そのようなわけで、この「正誓寺」も城下への入り口である矢田口の要の位置に配置されています!

場所:亀岡市矢田町

正誓寺

▼2011年9月29日 円通寺
亀岡市旧町にて、またまた古いお寺のご紹介です!
今回は「円通寺」。形原松平家の奥方の菩提寺として創建されました。
このお寺に伝わる形原松平康信の念持仏「達磨大師像」にちょっと面白い話があるそうですので、ご紹介させて頂きます(^^)
ある時・・・江戸藩邸の隣で火災が起こった際、一生懸命防火に励む者のおかげで藩邸は類焼を免れたそうです。
その者に褒美を渡そうと探しましたが見つかりませんでした。
その後、康信の念持仏「達磨大師像」の衣装の裾が少し焦げているのが見つかり、この達磨大師が火災から守ってくれたということで、その不思議な霊力に感動したそうです。
流石亀岡城下町、先日の秋葉神社といい、火災関係のエピソードがたくさん見られますね!

場所:亀岡市紺屋町

円通寺

▼2011年9月17日 法華寺
現在弊社で随時内覧受付中の、旧町の新築一戸建て。そのすぐ傍にあるお寺「法華寺」をのぞいて来ました!
亀山城主小早川秀秋の保護を受けて現在地に移されたお寺で、亀山城下の寺院本堂の中で最も古いのだそうです(^^)
確かに年代を感じさせる立派な門構えでした。
ところでこの法華寺、日蓮宗のお寺なのですが、実は亀岡地域では早くから臨済宗が広がり、他宗派の展開が遅れたのだそうです。
日蓮宗では日伝上人が応永12年(1405年)に曽我部町で桑田寺を開創したのが始まりなのだとか。
その後1464年、荒塚で法華時が開創、そこから徐々に教線の拡大が図られました。
弊社新築物件を見に来られた方も、宜しければ是非帰りに足を運んでみて下さい。弊社物件から徒歩20秒です^^

場所:亀岡市本町67

法華寺

▼2011年9月10日 秋葉神社
紺屋町にポツンと佇む「秋葉神社」へ行ってきました!
1702年・・・青山下野守忠重(あおやましもつけのかみただしげ)が丹波亀山藩主に着任した頃・・・亀山城下では火災が発生し、町家の多くが被災してしまったそうです。
この時期たびたびの火災が発生し憂えた青山氏は、前任地の浜松で防火の神とされていた「秋葉三尺坊」を勧請し、防火を願ったのが、この秋葉神社なのだとか。
今とは違い、一度火が燃え広がると消火まで大変だった時代のことです、祈る思いも凄く大きかったのでしょうね!
なんでも、江戸では、この防火の神様をあがめた「秋葉信仰」が爆発的に流行し、その勢いを恐れた徳川幕府が禁令を出したほどなのだとか!!
見た目はこじんまりした神社ですが、こんな大命があったのですね・・・(^^)

場所:亀岡市紺屋町

秋葉神社

▼2011年1月29日 横町の洗い場
昔懐かしい「洗い場」が、まだ横町に残っていました!
城壁を思わせる建物に覆われて、今でも使われいている洗い場へ出かけてきました。
場所は、もうすぐ弊社で分譲予定の旧町のすぐ近く。
亀岡城のお堀の跡を利用して作られたようです。 撮影日はとても寒かったのですが、野菜を洗いに来られた方もいて何となく和みました。
私もいつか洗い来ようかなあ・・・いえいえ自宅から遠すぎました・・・。

場所:亀岡市

洗い場

▼2011年1月26日 横町の名木
大通りから見えない横町のとある細道通りに・・・亀岡の名木を発見しました!
細道に似合わない堂々とした枝ぶりは本当にお見事!
傍の稲荷大明神もよい雰囲気をかもし出しています。
通りから一歩入ると思わぬ発見があるものですね・・・!
実は近日弊社より旧町で分譲予定なのです!お楽しみに・・・^^

場所:亀岡市

横町

▼2011年1月12日 南郷公園の稲荷大明神
あちこちに寺社仏閣がある、歴史都市亀岡。南郷公園横にひっそりたたずむ、こじんまりした稲荷台明神を発見しました!!
南郷公園正面から市役所方面へ端へ抜けたところに、ありました、真っ赤なお社。思わず拍手2回に拝礼です・・・。

場所:亀岡駅前南郷公園横

稲荷大明神

▼2010年10月23日 亀岡祭直前の旧町
毎年恒例「亀岡祭」!今日はそのお祭の準備中の旧町を通りかかりました。
組み立て中の山鉾もとっても趣があります。
地域の絆が失われつつある・・・と散々言われる昨今、地域の方が協力してお祭の準備をされている姿はとても素敵ですね!
小学校時代はよく「鉾の上に乗ってみたい・・・」と思っていたものですが、よくよく考えると、高所恐怖症気味の私にはとても無理だと思います(笑)
大人しく夜店で食べ歩きでもしようかと思います・・・。

場所:亀岡小学校周辺

亀岡祭

▼2010年10月9日 壽仙院
京都もお寺は多いですが、亀岡も負けていません!
ただ今弊社分譲中の旧町にて、周辺をふらりと散歩中、ひっそり佇むお寺を発見しました。
名前は「壽仙院(じゅせんいん)」。明智光秀が深く帰依した大誉春光和尚を中興開山としたお寺だそうです。
静かな庭に入ると、水琴窟の澄んだ音色が聞こえてきました!
日本人はこういう音に弱いです・・・。将来は”鹿威し”かこの”水琴窟”のある庭の傍に住みたい・・・と秘かに思う坂東でした。

場所:弊社旧町分譲地 前

壽仙院

▼2010年10月6日 亀山城跡
まったり癒される亀山城跡をめぐってきました!
幅の広い砂利道をゆったり歩いていると、仕事中なのも忘れて立ち止まって思わず深呼吸・・・用事を済ませた後で立ち寄られることをお薦めします(笑)
高校の部活動でよく亀山城跡周辺を走っていました。
懐かしいなあと思いながら1周。見渡す限りの緑に、近眼の目も少しは回復したでしょうか!?

場所:亀岡駅降りて五分 亀山城跡

亀山城跡

●亀山藩ってどんな所?●
亀山藩は、古来より畿内の中央に近く、京都摂津から丹後山陰に移動する時に通過する場所でした。
日本海方面・大阪方面・播磨・若狭・近江へ抜けられる要所でもあり、物資流通・寺社への参詣・修行・武士の参勤交代・学問研修・芸能活動等の面で、その通過点としての重要な役割を持った地域です!
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●亀山城城下町の成り立ち●
・丹波に軍勢を投入する足がかりの地点として、信長の配下であった明智光秀亀山城を建築しました。
その城下町が現在の亀岡の「旧町」です!

→城下町は元々近隣の9ヶ村より人家を呼び集めて町となりました。
 柏原村・・・柏原町
 三宅村・・・三宅町
 古世村・・・古世堅町・古世町・横町・片原町・突抜町・呉服町
 中矢田村・・・矢田町・京町
 下矢田村・・・旅籠町・新町・柳町・魚屋町・塩屋町
 荒塚村・・・本町・紺屋町
 追分村・・・西町・北町
 安町村・・・安町
 余部村・・・余部町・河原町

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●亀山城城下町の様子●
・城下町には草葺の農家がたくさん並んでいました。(農民は城下に住んでいましたが、多くは堀の外へ田畑の耕作へ出かけていました。街中には農家が多数並び、農耕器具・牛馬が行き交っていました。)
その間に商人や職人の町家が並んでいました。
⇒亀山城城下町は、諸方より工商の人を招き、近隣9村の人々を集住させて作った、農家と町家の入り混じる町でした。


商農分離による商業者の城下町集住という通説的なありかたとは異なった町だったのです。

・初期は呉服町・魚屋町・塩屋町・紺屋町など、その名の通りの職業が集まった町並みでした。
その他、鍛冶屋・桶屋・酒屋・油屋・豆腐屋・小間物屋・蒟蒻屋・煙草屋など庶民に馴染みのある店や、旗屋・塗師・研屋・柄巻など、城下町ならではの店もたくさん見られました。
店舗を持たない行商人の「荷売り」も多々見かけられたそうです。

・元禄2年(1689年)京都から丹波を回っていた儒学者の貝原益軒は、城下町の様子について「町長し、旅人の宿駅なり、茶店あり、民家いやし」と述べています。
 →「町長し、旅人の宿駅なり」・・・山陰道沿いの宿場町として東西に長く連なる町の様子を表しています。
 →「茶店あり」・・・お店・人々で賑わった様子がよく分かりますね。
 →「民家いやし」・・・農家が混じった町なので、奇妙に見えたそうですよ。

・物資流通・寺社への参詣・修行・武士の参勤交代・学問研修・芸能活動等の通り道として、また交通の要所としての亀山藩の重要性から、城下町も行きかう人々で賑わったようです。

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●城下町と参勤交代●
※参勤交代とは・・・?
名統制強化の一つとして寛永12年(1635年)に参勤交代が制度化。
武家諸法度には、大名は毎年4月に参勤交代を行い、1年おきに江戸と国許を往復せよとあります。
大名に経済負担を強いる一方、街道整備・地域文化交流・商品流通・文化交流が進んだという利点もあったようです。

・亀山藩でも代々特別な事情がない限りは参勤交代を行っいました。江戸と亀岡の往復は凡そ半月から20日。
現在に繋がる亀岡祭りも亀山藩主が参勤交代で江戸詰めの時は、神輿も御旅所までの遷幸だけで山鉾もでないひっそりとした祭りでしたが、在国の時は賑やかな祭りとなり、神輿や山鉾も城中までも巡幸していたといいます。

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●あの伊能忠敬も訪れた!!●
伊能忠敬が亀山城下を測量で訪れています。
・文化11年(1814年)2月、伊能忠敬70歳の時亀山藩を訪れる。
測量に備え城下はよく掃除され、見苦しいものはすべて片付けられ、城下を往来中の牛馬はその場に留め置かれた。
先払町人足2人、伊能忠敬他測量方9人、人足105人、梵天(測量用ポール)持ち20人、その他10人の計135人。
伊能忠敬ら6人が旅篭町に宿泊。
亀山城本陣には表門の外に幕が張られ、左右に盛砂、番所が建てられ昼夜2人ずつ交代で羽織袴で詰めた。
今の調度品、床の間飾り、風呂桶など細かく気配りされ、夕食には本格的な本膳料理が用意された。

城下町を巻き込む盛大なもてなしだったことは、伊能忠敬一行を見送った後、亀岡城下測量責任者の矢田勘次郎が「早々に退き走り帰りて酒でも飲むべし」と言ったことからも推測されます。

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●亀岡祭!●
上矢田町に鎮座する『鍬山神社(矢田社)』(祭神・大己貴神(おおなむちのかみ)は和銅2年(709)に創祀されました。
社伝によると「亀岡〈亀山〉盆地がかって湖であった頃、諸国巡国中の大己貴神(大国主神(おおくにぬしのみこと)が黒柄山に神々を集めて相計り、一艘の樫舟に乗り込み、1杷の鍬で請田(保津峡)の峡を開き、肥沃な農地にかえた。
里人たちはこの神徳を称え、天岡山の麓にお祀りした。」と伝えています。

戦国時代には祭りが中断し社殿も荒廃しましたが、戦乱もおさまり、世が落ち着きをとりもどすと、歴代亀山城主も積極的に神社の復興にのりだしました。

亀山祭は、古い土地の祭神を母体としながらも、亀山藩主を始めとする支配階層の祭神をも合祀した鍬山神社の祭礼を媒体として領民との和合を図る中で、亀山藩の保護のもと町衆の祭りとして執り行われてきました。
亀岡祭山鉾連合会HPより
           http://www.kyoto-kameoka-kankou.jp/k-maturi/index.html
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●本町と亀岡祭 「三輪山」●
亀岡祭での本町の山鉾は、「三輪山」です。

大和の国三輪山山麓に鎮座する大神神社の祭神である「大物主大神(おおものぬしおおかみ)」をご神体とし、能楽の「三輪」の後シテの女神像で表しています。
「古来一社の神秘なり」として三輪山の大神神社に現存する三ツ鳥居は、全国鳥居は数あれどこの形式は唯一無二のものです。

亀岡祭は戦後しばらく中断していましたが、昭和28年ごろに復活し三輪山鉾だけが町内の巡行を続けるなど、鉾町民の維持と保存継承にかける心意気と未来に向けた不断の努力を、囃子の音色に感じて頂けたらと思います!
亀岡祭山鉾連合会『亀岡祭』より抜粋
 三輪山   山鉾   三輪山
亀岡市宮前町の歴史

亀岡市宮前町

▼2012年09月01日 宮川神社
宮前町の宮川神社です。
うっそうとした森の中にあり、なんともいえない静かな雰囲気でした。

元々の建物は、天正5年に明智光秀と波多野秀治の合戦の際に消失してしまいましたが、場所を移し再建したのが現在の宮川神社です。

祀られている神様が下賀茂神社と関係が深く、葵祭の行列には氏子青年が奉仕に参加されているそうですよ(^^)

場所:亀岡市宮前町

宮川神社

▼2012年03月01日 宝林寺
先日のとある雪の日に出かけた「宝林寺」です!
江戸時代のはじめの開創で、指定文化財の三如来像と九重石塔が置かれているそうです。
元々、これらは他の寺にあったそうですが、光秀の丹波攻めの際にそのお寺が焼失してしまい、この宝林寺に移動されたのだとか・・・。
宝林寺は近くにある佐々尾神社とともに亀岡の自然100選に入っているとのこと!
確かに回りは自然豊かな田舎風景でした(^^)

場所:亀岡市宮前町神前狭間27

宝林寺

●宮前町●
遠く延宝時代から昭和の戦後まで採掘されていた天然青砥石の生産は全国的に有名でしたが、残念ながら現在は採掘されなくなりました。
宮川の金輪寺から見る冬の霧の海亀岡の眺めは素晴らしく、多くの写真家が狙う亀岡の景物だそうです。


●宮前の古狐のたたり●
≪宮前町の伝説≫

むかし宮前の近くに名高い名医が住んでおり、一度その医者に診てもらうとどんな難病でもかならず全快するという評判だったため、家も豪奢を極め立派な家がまえでした。

ところが小雨が降るある夜のこと、真夜中の一時に医者の家の扉をしきりに叩く男がいました。
医者が起きて戸を開くと男は悲しそうな声で「ただ今私の妻が難産で生死のほども分かりません。
身にかなうことでしたらどんな事でも御礼をいたしますので、是非ご足労頂けませんでしょうか」と頼むのでした。
しかしよく見るとその男の顔が次第に狐に変わり、医者は恐ろしさの余り震えるばかりでした。
狐はその後も精一杯のお願いをして先に山へ帰りましたが、医者は恐ろしさのため狐の頼みを聞きませんでした。

それから2、3日経ち、村人達が「向こうの山にの母子が死んでいる。
可哀想に難産のため死んだようだ」と語り合っていました。
それからしばらくして医者の立派な邸宅は人に渡り、栄華を誇っていた家が急に没落してしまったそうです・・・。


●宮川神社●
≪宮前町宮川神尾山2番地≫

神社のある「神尾山」は、古くは山号を「神野山」と言いました。
神野山とは、神様が高天原から天降り鎮まります山、という意味です。

天正年間(1573~1592)明智光秀と波多野秀治の神尾山城の合戦の際、光秀軍の兵火に罹り寺院の一部を除いて焼失しています。
その後、毎年頻繁に落雷し田畑に不作が続いたため、これは大神様の祟りだろうと村の人は恐れ、徳川家光の時代に現在の位置に社殿を造営し宮川神社として祭神を祭りました。

ちなみにこの神尾山城ですが・・・
『総見記』によると天正年間(1573年-1592年)明智光秀が八上城攻めの中継基地として「本目の城」を使った、との記載が見受けられ、両文献に記載される本目城とは神尾山城を指すと推定されています。


●秋葉神社●
≪宮前町宮川岡山36番地≫

火の守護神、また災難よけの守護神として宮川区をはじめ近隣からの信仰も篤く常に参拝者があります。
毎年1月17日を「タチマチ」と言い、秋葉神社に参詣し、夕方から夜にかけて各町ごとに当番の家でお祭りをして守護を祈願する古い風習があります。
9月17日の例祭には昔から奉納大相撲があり近郷になり催しとなっていましたが、最近はそれが絶え代わりに新しい種々の催しが奉納されているようです。


●稲荷神社●
≪宮前町神前東條3番地≫

五穀豊穣、家内安全、御家繁盛守護の大神様で、一粒万倍の神徳には信仰篤く、元旦・節分・初午・例祭日には崇敬者によってお祭りがなされています。
祭神の「宇賀之御魂大神」は「倉稲魂命」とも言い、稲霊の神格化したものです。農耕民族にとって稲は最も大切な食料で、従ってそのものあるいは五穀を守護する神様です。

亀岡市西別院町の歴史

亀岡市西別院町

●西別院町●
法貴坂の七曲を越えて、明智戻り岩を過ぎると西別院町です。
山地と高原を縫うように国道が走り、ゴルフ場や工場、住宅などが開かれ以前までは思いもよらなかった西別院町の新しい顔がのぞいています。

霧のない冬の凍てが厳しい地域ですが、この気候を生かして作られていた天然寒天亀岡伝統産業の一つとしてかつては盛んでした。
こんにち人工物に押されて消滅してしまったのは何とも惜しまれる話です。


●髪結びの猫●
≪西別院町神池の伝説≫

西別院町神池のそばに一つのお墓があり、このお墓に長く髪を垂らした女に化けた「髪結び猫」が出ると言う伝説があります。

近年の春にもお墓の松の木の二股に分かれた幹に、髪結び猫を見かけたという人がいたそうです。
その時はお墓の上に一つの火の玉が見えたと思ったら、すぐその下に17、18歳くらいの若い女がしきりと長い髪をたらして結っていたそうな・・・。


●そろばん小坊主●
≪西別院町笑路の伝説≫

西光寺の傍に1本のかやの木があり、そこを夜遅く通るとお坊さんのような風体の男が木の下でそろばんをはじき出すと言います。

土地では俗に「そろばん坊主」と言い、狸の悪戯かもしれないと言われていますが、むかし西光寺の小僧さんが計算のことで和尚に叱られこのかやの木で首を吊って死んだという話もあります・・・。


●スサノオ神社●
≪西別院町笑路西畑14番地≫

源家武将の祖と称えられた源満仲は931年~938年に丹波地方を領するに及び、スサノオ神社が各地に次々建立されました。
西別院のスサノオ神社もこの時の勧請にかかったものと推測されています。
満仲公はしばしば当地を訪れ長く逗留したそうです。


●準重要文化財●
≪西光寺の聖観音像≫

現在頭と胴の接合部が外れており内部を見ることができます。
鎌倉時代末期の仏像によくある玉眼を用いながら、極めて細く作られた目、抑揚に乏しい面、形式に整えられた裳など、時代の特色をよく表しています。

≪万願寺の大宮神社仏像群≫
一木造りの仏像で、聖観音像、吉祥天、四天王、大日如来像など10体あります。
これらの仏像はほぼ10世紀中ごろの作品で、地方的な作風がよく表れています。
はじめからこのような群像があったのではなく、各所の仏像が寄せ集められたものと考えられています。

亀岡市大井町の歴史

亀岡市大井町

▼2012年12月01日 -亀岡の紅葉シリーズ1- 大井町JR沿線
亀岡で見かけた紅葉スポットをご紹介します!
亀岡は、JR嵯峨野線を挟んだ保津寄りに田畑が広がり自然豊かです。
そんな風景を一望できる場所はたくさんありますが、今回出かけてきたのは、大井町でただ今入居者募集中のマンション「グローバル亀岡」の近くです!
電車の線路越しに風景画一望でき、遠くの山々の紅葉が見渡せてとても綺麗ですね!
こんな所に毎日住んでいたら目も悪くならなさそうです・・・。
鉄道マニアの方にとっても絶好の撮影ポイントだと思います^^

場所:亀岡市大井町土田二丁目

紅葉

▼2012年04月21日 大井町の夜苗神社
本日は大井町の夜苗神社へ出かけてきました!
この神社にはその名の通り不思議な伝承があります。
その昔、とあるお百姓さんが夜に水田に苗を植えて帰り、翌朝出かけてみると、一夜にして竹に成長していたのだそうです。
そのため、今後の五穀豊穣を祈って夜苗神社が建てられたのだとか・・・。
なんとも不思議な話もあるものですね(^^)

場所:9号線沿い 大井町パチンコ駐車場横

夜苗神社

▼2012年03月17日 天皇神社
弊社で一昨年分譲をさせて頂きました、大井町並河にある天皇神社へ行ってきました!
名前の通り、宇多天皇と牛頭天王がお祀りされています。
社伝によりますと、近衛守護で観音寺城主の三宅一族が織田信長の策略により落城し、丹波の地に分霊をしたのが始まりだそうです。
名前の通り、皇室との繋がりも深く、江戸時代には参勤交代の諸大名の行列が敬意を払って槍を倒して付近を通過したのだとか・・・。

※牛頭天王とは:稲作や夏の疫病や目に見えない精霊の仕業を追い払ってくれる天竺渡来の神様です。

場所:大井町並河

天皇神社

●大井神社●
≪大井町並河宮ノ後53≫

祭神木股神が、保津川を鯉に乗って遡ってきたという伝説が語り継がれ、別名「鯉明神」とも呼ばれています。
鯉は神様の使いとされているため、氏子や地域の人々は5月の端午の節句に鯉ノボリを立てないという珍しい風習が残っています。
昔から鯉を食べるとお腹が痛くなると言われ、鯉を食べることもしないそうです。
神罰があたるということで、捕まえることもありません。
釣りの最中に誤って釣ってしまった場合は、速やかにキャッチ&リリースで放してやるそうです。


●夜苗神社●
≪大井町土田南嶋31-1≫

夜苗神社には不思議な伝説があります。
ある百姓が水田に苗をうったまま帰宅し、翌朝田植えのため水田に戻ったところ、稲の苗が一夜にして立派な竹に育っていました。
「一夜で丈夫な竹になった」ということで、この神徳高い地に社をつくり五穀豊穣と家内安全を祈ったそうです。
嬰児の夜泣き止めにも厚い信仰が寄せられています。
また、天照大神が天降りする時に先導を務めた猿田彦命を祀っていることから、交通安全にもご利益があるとされています。


●天皇神社●
≪大井町並河北条103≫

祭神は天竺渡来牛頭天王です。
稲作に害をなすものや、夏の疫病悪病の原因をなすものは「御霊」という目に見えない精霊のせいであると考えられており、ころらを払う神として牛頭天王が祀られています。
参道の鳥居には十六菊の入った紋天皇神社の神額があり、皇室とつながりが深い神社だったことが伺えます。
以前は神殿の前庭で近在の力士を集め、盛大に宮相撲が開催されていたそうです。


●八幡神社●
≪大井町小金岐大門13、14≫

その昔、平家の落ち武者が隠れ住んだ場所で、宿村として栄えていました。

亀岡市曽我部町の歴史

亀岡市曽我部町

▼2011年5月19日 小幡神社
曽我部町探索中・・・偶然発見した小幡神社。
静かなところで、聞こえるのは郵便屋さんのバイクの音くらいでした。
なんでもこの小幡神社には、全国に3幅しかない円山応挙の絵馬の一つが社宝として保管されているのだとか・・・!
応挙に馴染みの深い亀岡ならではの社宝ですね^^

場所:亀岡市曽我部町

小幡神社

▼2011年4月16日 穴太寺
小学校の写生会で訪れて以来、十数年来の訪問となりました!
境内は桜が咲いて丁度見ごろ。本堂、多宝塔、鐘・・・と見所いっぱいの穴太寺です。
木組みが大変綺麗で、古寺の雰囲気ばっちりです。
本堂屋根下にはたくさんの千社札が貼ってありましたが、あんな高い場所にどうやって貼ったのでしょうか・・・壮観です。
そろそろ花粉症も治まってくる季節ですので、広い境内をぶらぶらのんびり歩くのも良いのではないでしょうか^^

場所:京都府亀岡市曽我部町穴太東辻46

穴太寺

▼2011年4月9日 金剛寺(応挙寺)
有名な穴太寺を訪問した帰り、ちょっと休憩と立ち寄った小道でたまたま金剛寺というお寺を発見しました!
江戸時代を代表する画家圓山応挙の掛軸や手紙があり、応挙と縁が深いことから「応挙寺」とも呼ばれているのだそうです。
門前には応挙のユニークな顔を描いた石碑がありました。
なんでも応挙は少年期にこのお寺に預けられていたのだとか・・・。
こんな所で圓山応挙に出会えるとは、この日一番の発見でした^^
場所は穴太寺かた徒歩5分ほど、穴太寺前を正面に見て左折→小幡橋を渡ってすぐ左折、で金剛寺です。穴太寺をご訪問の際は是非こちらもどうぞ・・・。

場所:亀岡市曽我部町穴太宮垣内43

金剛寺,丸山応挙,応挙寺

●曽我部町●
竜ヶ尾・霊仙の山々に囲まれ、西南に発した天与の水系、曽我谷川などの恩恵に潤う肥沃の曽我部盆地は、昔から良質の米を産することで有名です。

写生派をなした画匠の円山応挙は世界的に名の知られた曽我部町に生まれた先人です。


●明智戻り岩●
≪曽我部町の伝説≫

むかし明智光秀は亀山城(現在の亀岡市亀山城跡)を拠点とし丹波一円の平定に努めていました。
光秀は八上城主の波多野秀治率いる軍と法貴坂で戦いましたが、激戦すること数日、戦いに利があらず亀山城へ退却しました。
この時退却をした場所に大岩があったため、この岩を「明智戻り岩」と呼ぶようになったということです。

また一説には光秀が大阪を攻めようとして法貴坂まで来たところ、その前途を塞ぐような屏風岩が高くたっており、光秀はこの岩の向こうに大勢の敵がいるかもしれないと恐れて引き返したとも言われ、また、こんなに大きな岩があるのであれば奥にはもっと大きな岩があるだろうと恐れて引き返したとも言われています。


●加塚●
≪曽我部町の伝説≫

亀岡から曽我部に通じる道の右手に町墓地があり、その藪に囲まれて俗に「加塚」と呼ばれる塚があります。

話によると、これは行基が蚊を封じ込めた塚だと言います。
また一説では昔この地で戦争があり、敵味方の死骸を仮に埋めたので「仮塚」だとも言われています。
別の説では安行山に居住した安部晴明の埋葬地とも言われています。


●生首谷●
≪曽我部町の伝説≫

曽我部長に生首谷という谷間があります。

昔大変臆病な武士が日が落ちてからこの谷を越えようとしたところ、前方の棒のようなものの上に女の生首を見つけました。
驚いて元来た道を引き返し、前方に見えた灯火の家に入り一晩泊めてもらえないか頼んだところ、家にいた男の顔がとても恐ろしく目は爛々と輝き睨み付けられました。
臆病な武士は怖くなって家から逃げ出し、ようやく村落に辿り着き村人にこの話を打ち明けました。
翌日村人たちが行って見ると確かに女の生首が残っていました。それからこの谷を「生首谷」と呼ぶようになりました。

一説には生首谷にはむかし鬼が住んでいて、人間の生首を捨てた谷であると言われています。


●與能神社●
≪曽我部町寺蛇谷1番地≫

丹波地方を統治するため神様が亀に乗ってこられたので「亀山」(現在の亀岡)の地名が残っていると言われ、今でもこの與能神社の「つかわしめ」は「亀」であり、川や田で捕まえられた亀はお宮の放生池に放たれる風習が残っています。

平家物語の「鹿ヶ谷」の段に、治承元年、平家打倒の計画が漏れ平清盛のために鬼界ガ島へ流人となった僧俊覚と丹波の少将藤原成経の話がありますが、その門脇平宰相の娘が病気になり祈祷師が願掛けをした内の一つがこの與能神社と言われています。

「六華祭」という祭礼が10月に開かれますが、その時のお神輿は亀岡でも一番重いと言われる立派なものです。


●天満宮●
≪曽我部町犬飼北山4番地≫

12月25日のお火焚祭りでは全戸からお供えがあり、餅や蜜柑などを社からまくと、老若男女がきそって拾い、家族一同でお供えを頂き無病息災を祈るという珍しいお祭りの風習が今も残っています。


●厄済神社●
≪曽我部町南条岩ヶ谷≫

この神社は石積の基段上に盛り土があるだけでホコラがありません。
地鎮祭などの封土(盛り土)と同じで、大きな山、木、岩などに神様が宿るとする素朴な信仰があります。
土地の人々はヤケスギさん(厄済みのなまったもの)と親しみ、また恐れて祀っています。
このような原始的な土俗信仰が残っているのは、亀岡でも貴重な神社だそうです。

この神社には次のような伝説があるそうです。
ヤケスギさんの祭神は白い蛇であるといい、この白蛇を見た人はいませんが現在の平和公園になっている中山池へ夜な夜な水を飲みに行くと言われていました。
白蛇が通った後は草木が倒れ伏して白い1本の道になったと言われています。

ヤケスギさんに願をかけた時は、そのお礼として川魚を串に突き刺して封土の上に突き刺しておかねばバチがあたると言われてきたそうです。
現在もこの風習は残っており、近所の川や池でとれた新鮮な小魚をお供えする農民の素朴な信仰心のあらわれだと思われます。

この不思議な神社境内には美しく澄んだ湧き水があり、この水で眼をあらうと眼病が治るとか、飲むと諸病に効くなどと言われ、近隣からもこの神水をもらいに来るのだそうです。

土地の人は丑の刻参りをよく行い、大きな木には五寸釘を打たれた藁人形があったとの怪談も残っているとか・・・。


●八幡宮社●
≪曽我部町重利矢折39番地≫

亀岡は頼政塚、義経の腰掛岩などがあり、義経の領地でもあったことから源氏にゆかりの深い土地です。

源氏は元々関東に勢力を持っていましたが、戦勝祈願を鎌倉の鶴ヶ丘八幡宮で行ったことから武の神として八幡宮の名を挙げたと言われ、亀岡の八幡宮にも足利氏、源氏などの武将とつながりのあるお宮さんが多くあります。
この重利八幡宮もその関係ではないかと言われています。
「重利」の地名も元は武将の名前から出ているといい、住所にある「矢折」など戦場であったと思われる地名が残っており昔が偲ばれます。

祭りの時には各戸より神饌がうず高く供えられ、当日は若者たちによって奉納相撲が行われ賑々しい祭り風景であるとのことです。

亀岡市馬路町の歴史

亀岡市馬路町

▼2010年12月01日 平の沢池
運転に疲れたので癒しの池へやってきました・・・。
とても見通しの良い平の沢池です!可愛いカモがたくさんいて和みます。
なんでも、京都では唯一、全国的にも有数のオニバスの自生地なんだそうです!
8月頃から花が咲き始めるそうで・・・少し行くのが遅かったようですね(笑)
近くに練習場でもあるのか、上空を飛行するパラシュートを発見してしまいました。
冬の朝の散歩に丁度良さそうな池周辺・・・パワーをもらって、さあ、運転再開です!!

場所:亀岡市馬路町池尻

平の沢池

●馬路町●
馬路町は河原町町と続いた亀岡唯一の田園地帯です。
千歳町とともに早くから開けただけに、古瓦、土器の出土も多く車塚などの古墳に見るように歴史的に重要な地域とされています。

また明治維新には勤王派西園寺公望の率いる山陰鎮撫の一隊が慶応4年、愛宕山麓から馬路に入りました。
この時の馬路の土豪弓箭組の人達は、錦旗をひるがえしてやってきた一隊に組し、丹波諸藩はもとより山陰鎮撫に協力したという歴史を持つ町でもあります。

亀岡における明治の黎明は、馬路から始まったと言っても過言ではないでしょう。


●長林寺の鬼瓦●
≪馬路町の伝説≫

この寺の門の鬼瓦は、昔瓦つくりの名人と言われた「たねしの権兵衛」の作であると言われています。

権兵衛は3ヶ月の間毎日職人に土練りをさせ、自分は毎日大酒を飲んでブラブラしていましたが、土練りができあがると食事以外の差し入れを一切禁じて一切の面会を断り、この鬼瓦と獅子瓦つくりに没頭したという話が残っています。


●天満宮社●
≪馬路町池尻68番地≫

祭神の菅原道真公が広く学問を修め、学徳見識高く聖人偉人とあがめられたのは周知の事実ですが、当時の池尻の村人たちも公の神徳を仰ぎたいと考え天満宮として祀ったのがはじまりです。

その当時は小さな祠に御祀りしていましたが、1458年に社殿を新築した際村人たちが不思議な霊感を度々感じたため、協議の結果1488年にさらに社殿を新しくし、同時に今まで出雲神社の氏子であったのを改めてこの天満宮を氏神とすることになりました。

今では学問の神様、雷等の災除けの神様として「池尻の天神さん」として親しまれています。

天満宮の使徒が「牛」であることはよく知られていますが、この地では牛肉を食することを慎み、特に祭典の行われる日や毎月25日には牛肉を食卓にのせない習慣が今でも続いているようです。


●小川月神社●
≪馬路町池尻68番地≫

祭神の菅原道真公が広く学問を修め、学徳見識高く聖人偉人とあがめられたのは周知の事実ですが、当時の池尻の村人たちも公の神徳を仰ぎたいと考え天満宮として祀ったのがはじまりです。

その当時は小さな祠に御祀りしていましたが、1458年に社殿を新築した際村人たちが不思議な霊感を度々感じたため、協議の結果1488年にさらに社殿を新しくし、同時に今まで出雲神社の氏子であったのを改めてこの天満宮を氏神とすることになりました。

今では学問の神様、雷等の災除けの神様として「池尻の天神さん」として親しまれています。

天満宮の使徒が「牛」であることはよく知られていますが、この地では牛肉を食することを慎み、特に祭典の行われる日や毎月25日には牛肉を食卓にのせない習慣が今でも続いているようです。


●八幡宮社●
≪馬路町流川1番地≫

この神社の創設は寿永元年(1182年)と言われ、この地方で古い神社の一つです。

記録によると昔から子どもが生まれたら必ずこの社に子どもの武運長久を祈願するために宮参りを行ったとあり、現在でも子どもの健やかな成長を願ってお参りする氏子が多くいるそうです。

亀岡市吉川町の歴史

亀岡市吉川町

▼2012年06月21日 蛭子神社
烏帽子を被り鯛を抱いた姿が有名な・・・七福神でお馴染み、蛭子さん!
その蛭子さんを祀った亀岡市吉川町の蛭子神社へ出かけてきました(^^)

立て札によりますと・・・ある年、村人が恵美須社を川に流したそうなのですが、とたんに川が波立ち、ご神体がなんと3町も遡ったそうです!!
それをこの地の村人が発見し、お祀りしたのが蛭子神社の始まりなのだとか。
不思議な話もあるものですね・・・^^

場所:亀岡市吉川町 国道9号線余部交差点入る

蛭子神社

●稲荷神社●
≪吉川町吉田後代62番地≫

10月25日の例祭日には地域の男女小中学生によって子ども神輿が町内を練り歩き賑わっています。
当神社は子どもの守護神として地域人の熱い信仰を受けています。


●蛭子神社●
≪吉川町穴川平田2番地≫

「蛭子」は「夷」とも書き、異民族を意味します。
古代日本にまだ目新しい文化が存在しなかった時代に中国、朝鮮半島を経て、珍しくて新しい文物や産業をもたらした縁から付けられた神名と思われます。

商売繁盛、産業隆盛を願う信仰が中心となっています。