
|
光秀の正室となった熙子(ひろこ)の生家は、明智氏と同じく祖を土岐源氏とする武家。 熙子は近所の評判になるほどの美貌の持ち主だったが、光秀との縁組が決まった頃、思いもかけない病魔(疱瘡)に見舞われ、顔半分には元の美しさを偲ばせながらも、右頬に刻んだ傷跡が残ってしまった。 しかし光秀は拒むことなく妻として迎え入れ、仲睦まじかったと言われている。光秀は生涯側室を取ることはなかったという・・・。 |
|
|
|
|
本能寺の変から100年以上経った江戸時代、当時の福知山城主だった朽木稙昌は当地における光秀の功績を讃え、宇賀御霊大神(保食神)に明智光秀を合祀し、御霊神社を創建した。 代々光秀の善政を語り継いでいた領民たちはこれを大変喜び、城主の朽木に嘆願して「御霊様」となった光秀公のため大祭を行うようになった。これが毎年10月に行われる「福知山御霊大祭」。光秀が福知山の領民に心から愛情を注いだ結果と言えるだろう。 |
|
|
|
|
|
1556年、明智城が落城し、光秀は妻熙子と長女倫子と明智弥平次の4人で、越前(福井県)に落ちるために城を抜けた。しかし美濃(岐阜県)から越前へ逃げるためには、険しい油坂峠を越えなければならなかった。そのうち熙子は力尽き、「私を置いて逃げて下さい」と光秀に伝えるが、光秀は身重の熙子を見殺しにするどころか、背負ってこの峠を越えたという。 |
|
|
|
|
1562年、越前に落ちてから百姓になりすましながら生活をしていた光秀には、着物を買うお金すらなかった。 そこで妻の熙子は、当時女の命と言われていた黒髪を売って明智の家紋(桔梗)が付いた晴れ着の小袖を買ったという。 |
|
|
|
|
|
朝倉家に仕えていた頃、光秀は主君・義景のリクエストで鉄砲の腕前を披露することになった。 光秀から25間(約45m)の距離に用意されたのは、一尺(約30cm)四方の的が100個。 光秀が撃ち終えると、的の真ん中の記に68発、残りの32発も全て的に当たっていた。文字通り百発百中の神業に、義景はすっかり感じ入っていたという。 その後、義景は光秀に鉄砲隊を任せることを決めたと伝えられる。 |
|
|
|
|
光秀が若い頃、斉藤道三の娘、帰蝶と恋仲にあったと言われている。 当時美濃の蝮と恐れられていた斉藤道三は、戦国の同盟を結ぶ目的の結婚によって、帰蝶は織田信長に嫁ぐことになった(後の濃姫)。 結果、光秀は失恋することとなるが、帰蝶への思いは生涯続いたと伝えられる。 |
|






















































































